前回ご紹介した私の故郷福井からここ広島へは、特急サンダーバード(湖西線経由)を京都か新大阪で新幹線に乗り換えることになります。サンダーバードの車窓から見える山裾は大部分が壮齢のスギ林で、琵琶湖沿いの都市域に入るまでは、線路沿いの家屋も黒色系の瓦に灰褐色のトタン外壁の組み合わせが多いです。冬期であれば、まさに雪国、日本海側のどんよりとした景色です。
ところが新神戸辺りからトンネルを何度も通過しているうちに、新幹線の車窓から見える山々は樹高の低い明るいアカマツ林が中心になってきて、家屋の瓦は赤褐色、壁は漆喰の白色が目立ってきます。山々の稜線はなだらかで、ため池が点在し、明るく優しい風景に思えてきます。
広島に住み続けていると、そうした景観は当たり前になって慣れてしまいますが、移住して数年間は、新幹線で広島に来る度に新鮮な感動があったのを覚えています。特に東広島駅周辺を通過する時間が最も見晴らしがよく、いまでも印象的ですね。
ちなみに、私が1990年4月に広島大学に入学した時には、総合科学部のキャンパスはまだ広島市中区千田町にありました。3年後、まさに東広島市西条町の「里山」のど真ん中に学部が移転することになりますが、その時には既に里山を主な研究対象にしていました。前置きがちょっと長くなりましたが、里山を研究することになった経緯を振り返ってみます。
広島大学総合科学部は当時「地域文化」、「社会科学」、「外国語」、「数理情報科学」、「物理生命科学」、「自然環境研究」、「生体行動科学」の7コースで構成されていました。1年次は共通一般科目中心で、2年次からコースを選択し専門的な勉強に入ります。
いわゆる文系の区分で受験・合格した私ですが、入学前から決めていた「社会」と「自然」の両方から「環境問題」にアプローチしたいという思いを実行に移します。選択したコースは「社会科学」(以下、社学)ですが、「自然環境研究」(以下、自然環)の単位もできるだけ取る、場合によっては自然環でも卒業できることを目指したのです。
少なくとも私の学年で、そうした取り組みをしているのは自分ひとりでした。当然、かなり無理なカリキュラムになりますし、何より文系の私が大学の自然科学系専門科目を履修して単位を取るのは想像以上に忙しくたいへんでした。友達の中には、私は自然環所属だと思っている人もいたかと思います(自然環のソフトボールチームで学内対抗戦に出た記憶もありますから)。
幸い、優しい教務職員さんや自然環のコース仲間に助けられ励まされながら、もと文系には難関の専門共通科目をなんとかクリアーできました。3年次には、社学で地域社会学や環境経済学のゼミに出入りして先生の社会調査のお手伝いをしながら、自然環では測量や植生調査などの実習で現地合宿などにも参加する、というような学生生活をしていました。
この頃はまだ具体的にどういうフィールドで研究を進めるのかはっきりしていませんでした。ひとくちに「環境問題」の研究といっても、さまざまな対象や分析方法があることを知ったからです。ただ、公害や地球環境といったグローバルな問題よりも、身近な自然環境の保全と、それに関わる社会組織・活動に興味がシフトしていったのは、主ゼミの地域社会学の先生の影響かもしれません。
ひとつの転機は3年次の夏休み、仲の良い自然環のA先輩に誘われて、乗鞍岳周辺の環境パトロールのアルバイトを経験したことです。標高2700メートルの畳平にある営林署の山小屋に2週間ほど泊まり込んで、高山植物の盗掘防止のための巡視をする中で、森林や草地の美しさに惹かれ、稀少な植物と共生する社会的枠組みについて考えさせられる機会になりました。
それからしばらくして、秋も深まる頃だったと思います。前出のA先輩から、先輩が所属する「とある研究室」での懇親会に来ないかと突然誘われました。自然環では4年次から指導教官を決めてゼミ(理系の場合は研究室と呼ぶ)に所属しますが、同級生は決める前にいろいろな研究室の雰囲気を見て回っていました。そういえば自分はコースが違って3年次にゼミを決めていたので、どの研究室にも訪問していませんでした。
その日の夕方、確か総合科学部の向かいの旧教育学部の暗い建物の中にあった「とある研究室」にちょっと緊張しながら入ると・・・次回こそ、「里山」研究に出会ったお話です(笑)