【広島人の履歴書】
File.11 平岡優一さん 広島市議会議員(中区)《続編》

【広島人の履歴書 】


広島と縁のある各界のオピニオンリーダー自らが語る今日までの足跡。知られざるエピソード満載の履歴書(プロフィール)には、現在を生きるヒントが隠されています。

広島城天守木造復元、毛利輝元銅像建立、
子育て支援政策など地域活性化に拍車!

子どもの頃は漫画家志望、学生時代は中国武術やバンド活動に明け暮れ、大学卒業後は学習塾を経営する会社に就職。塾講師、人事部での業務、学校の立ち上げや運営に従事した後、40歳で広告制作会社を設立し、さらに広島城観光PR隊“安芸ひろしま武将隊”の企画・運営…政治の世界とは全く無縁だったわたしが周りの声にも押されて平成31年(2019年)4月、広島市議会議員選挙に出馬。わずか3週間の選挙活動で初当選したのが7年前のこと。右も左も分からぬまま、ひたすらがむしゃらに突っ走ってきました。ただ、時間が経つのは早いもので来年令和9年(2027年)春には、わたしにとって3回目の選挙を迎えます。令和5年(2023年)に「広島人の履歴書」で、今日までのわたしの足跡をまとめて、早くも丸3年過ぎましたが、この間も忙しい日々の中で政治家として、また一個人として、様々なことに挑戦してまいりました。続編では、前回の履歴書で自分が取り組むべき地域の課題として掲げたテーマの進捗状況および2期目の当選以降の主だった活動についてご紹介します。

広島城天守の木造復元

まずは、広島城天守の木造復元について。天正17年(1589年)、西国の大大名・毛利輝元公によって広島城が築城され、広島のまちも誕生しました。以来350年もの長きにわたって、広島城は城下町広島のシンボルでした。昭和6年には天守が国宝に指定されるなど、広島城の文化的価値は非常に高かったといえます。ところが、昭和20年(1945年)8月6日、アメリカ軍が一発の原子爆弾を投下し、輝元公が築かれた美しい五層の天守は一瞬にして倒壊。しばらくは天守のない時代が続きましたが、終戦から13年のち、昭和33年(1958年)に開催された「広島復興大博覧会」の目玉として鉄筋コンクリートで再建されたのが、現在の天守です。しかしながら、再建から68年が経った今、壁部のひび割れや剥離・剥落が複数箇所で確認されるなど、急速に老朽化が進んでいます。耐震基準も満たしておらず、広島市が実施した耐震診断では震度6強の地震で倒壊する可能性が高いとの結果が出ました。建物としての寿命、つまりは耐用年数も過ぎており、このままでは、いずれ解体を余儀なくされる運命です。わたし自身、議員になる前から“安芸ひろしま武将隊”の活動で毎週のように広島城へ足を運んでいたこともあり、広島城への思い入れ、親しみは人一倍ありました。当時、河村たかし名古屋市長が選挙公約として名古屋城天守の木造復元を掲げるといった話題もあったので「広島城天守も木造復元ができれば…」という漠然とした思いが芽生えてきたんです。そこで、松井一實広島市長に直接木造復元を提案したのですが、最初は全く興味・関心を示されませんでした。それでも、わたしは諦めることなく、議会で取り上げ続けるとともに、市民団体「広島城天守閣の木造復元を実施する会」(大橋啓一会長)を立ち上げ、勉強会や街頭での署名活動をスタート。署名はわずか3か月で20,150筆が集まりました。これを受け、松井市長も議会において「広島城天守については木造復元をめざす」と明言されたことで、広島市も大きく舵を切り、木造復元への道筋が見えてきました。

では、なぜ木造復元にこだわるのか。目先の観光資源という視点で考えれば木造以外の工法を採用した方がずっと早く完成し、初期費用も抑えられます。ただ、長期的な視点で考えると、一般的に鉄筋コンクリート造などは数十年で寿命を迎えますが、木造は最低でも400年、メンテナンス次第では1000年以上もつ可能性があります。実際に奈良の法隆寺の五重塔は築1300年以上、世界最古級の木造建築物のひとつです。現在、我が国には、松本城、彦根城、姫路城、松江城、松山城など、築城当時のままの姿を残す貴重な文化財、いわゆる“現存天守”が12城あります。文化庁は史跡などにおける歴史的建造物の復元に関して厳しい基準を設けていますが、広島城天守については戦前に作成された実測図や多数の写真が残されており、復元が認められる可能性があると考えています。しかも広島城天守は、現存12天守、それに今後復元可能な4天守を加えた16天守の中でも、豊臣時代の大坂城を模して最も古い時代に築かれたもので歴史的にも学術的にもかなりの価値を有している。つまり、現存する資料を基に忠実な復元が可能であり、復元されれば国内で最も古い様式を伝える天守、それが広島城天守なのです。検討会議の構想では、かつて存在した大天守、東と南の小天守およびそれらを結ぶ廊下などを含む建物群全体を江戸時代末~明治初期の姿で一体的に復元することが検討されています。

広島城天守の木造復元への機運が高まったことで、観光面でもプラスが生じました。“安芸ひろしま武将隊”が活動を開始した13年前は、広島城天守を訪れる観光客は年間約20万人で、当時200万人を動員していた大阪城や名古屋城に比べて閑散とした淋しい状況でした。ところが、広島城天守の木造復元が報道され始めると、昨今のインバウンド需要も追い風となって、昨年度(令和7年度)の広島城天守の入館者数はかつての3倍以上、69万5000人まで増えました。さらに老朽化・耐震性能不足のため、今年(令和8年)3月22日をもって天守が閉館することが決まってからは、連日行列ができるほどの大盛況となり、閉館前の3日間は1日4000人の入場制限をしたほどです。全国には戦災や火事で失われた城郭は他にもありますが、人類史上最初の原子爆弾により無残に倒壊した国宝は世界で唯一、広島城天守のみ。海外からの訪問客も増える中、広島城天守を原爆投下以前の姿に復元することは、国際平和文化都市・広島市が世界に発信するメッセージとしても大変意義深いものがあります。ただ、広島市の直近の報告では、調査、文化庁への申請、解体、設計、建築に必要な期間を含め、完成は最短で23年後の2049年度です。計画通りに進むと、完成する頃のわたしは81歳。木造復元された広島城天守を見届けるためにも、それまでは元気でいたいですね。

毛利輝元公銅像建立

戦後80年、そして広島市にとっては被爆80周年という大きな節目の年となった令和7年(2025年)は、広島城を築き、広島のまちの礎を築き上げた広島開府の祖・毛利輝元公の没後400年という、もうひとつの節目の年でした。そこで毛利輝元公を顕彰すべく、「毛利輝元公銅像建立プロジェクト」を立ち上げました。仙台城には伊達政宗、甲府駅前には武田信玄、岐阜駅前には織田信長、大阪城には豊臣秀吉、熊本城には加藤清正…全国の多くの城下町には、その地を切り拓き、まちづくりの礎を築いた先人たちの銅像が建てられています。しかし、広島には、広島のまちを築いた毛利輝元公の銅像がどこにも存在しません。「このまちは、いつ築かれたのか?誰によって築かれたのか?」郷土愛やシビックプライドを育むうえでも、まちの歴史を知ることは非常に大切です。銅像の建立は、その歴史を“見える化”する試みです。没後400年の2025年を建立目標として準備を進めることになり、まずは令和6年(2024年)3月18日に松井市長を表敬訪問し、銅像設置に際しての協力を求める要望書を提出。4月からは、毛利宗家・毛利元敦氏にプロジェクトをご説明したのを皮切りに、関係各所に協力を呼びかけました。また、7月からクラウドファンディングをスタートさせるため、WEBサイトの制作などの準備に着手しました。

クラウドファンディングは、第一目標金額を1000万円に設定してスタートしましたが、最初は支援金がなかなか集まらなくて大変でした。開始後1週間で目標金額の3割に到達しないと成立は厳しいといわれる中、最初の1週間で集まったのは100万円。さすがにこれには焦りました。クラウドファンディングの実施期間は2か月。タイムリミットは8月末です。ところが、7月~8月は夏休みや盆休みがあるので、盆休みの間は何事も動かないし、盆休みが明けてからはわずか2週間しかない。となると8月上旬までにはある程度めどをつけないといけません。結局、クラウドファンディング頼みというわけにもいかず、真夏の暑い中、知り合いの企業や個人の方々にご支援、ご協力をお願いすべく、駆けずり回りました。時には甲冑を身にまとって、本通交差点に立ち、協力を呼びかけることも。その結果、クラウドファンディングも見事1000万円を突破し、最終的な支援金額は2500万円にも上りました。銅像製作については、全国でも鋳造のメッカとされる富山県高岡市の株式会社ナガエに依頼し、銅像の原型は日展作家の喜多敏勝氏に製作していただくことになったのですが、ここからがまた大変でした。

何しろ肖像画くらいしか残っていない400年以上前の戦国武将の銅像を造るわけです。富山の会社とオンラインでやり取りしながら、輝元公のビジュアルデザインもわたしがやらなくてはならない。最初は粘土で6分の1スケールとなる高さ30cmのミニチュア像を作り、それからさらに粘土で等身大像を製作するのですが、等身大像を作るにあたっては輝元公の甲冑のレプリカを送って、すべて実寸で作ってもらいました。年末には現場の工房へ足を運び、粘土でできた等身大像をチェック。そこで作家の先生と打ち合わせをしながら磨きをかけていくのですが、悩みに悩んだのが輝元公のお顔でした。輝元公の肖像画は一点しか残っておらず、しかもずいぶんデフォルメされていると思われ、実際の顔立ちはわかりません。ひとまず画像編集ソフトなどを駆使してわたしなりに輝元公のお顔を描き、作家の先生とイメージを共有することで、満足のいくお顔に仕上げることができました。参考までに銅像造りは、粘土の等身大像を基に石膏型を取り、石膏像で鋳型を作って銅を流し込み、造形するのが手順。完成した銅像は、最初は銅の色、要するに新品の綺麗な10円玉の色ですが、いずれは緑青で変色するため、青銅色や黒、茶色を塗るんですよ。青銅色という伝統的着色を施した毛利輝元公の銅像は、広島開府の祖に相応しい重厚な出来栄えとなりました。

こうして念願の銅像が完成。設置場所は広島城南側の御濠端です。“毛利輝元公没後400年記念事業”の一環として、旧暦で輝元公の命日にあたる令和7年4月27日に「毛利輝元公銅像除幕式」を開催しました。当日は、快晴の空の下、徳山毛利家第14代当主の毛利就慶さんはじめ、約200人が参加。ご来賓や関係者の挨拶、広島護国神社の神職の方によるご祈祷ののち、広島城観光PR隊“安芸ひろしま武将隊”の「いざ、出陣!」の掛け声を合図に除幕し、見事な輝元公の銅像が披露されました。広島の礎を築いた輝元公のまなざしは、戦後の復興をとげたまちを静かに見守ります。この銅像が、広島のまちのルーツを知る入口となり、多くの人々が郷土愛や誇りを育むきっかけになれば、幸いです。

輝元公没後400年記念事業

“毛利輝元公没後400年記念事業”では、銅像のお披露目に続いて9月15日に広島駅南口地下広場で「関ケ原合戦 安芸の陣」というイベントを開催しました。慶長5年(1600年)のこの日に現在の岐阜県を主戦場とする“関ケ原の戦い”が行われたことにちなんだ企画で、東軍の総大将・徳川家康を擁する名古屋の「名古屋おもてなし武将隊」と西軍の総大将・毛利輝元を擁する広島の「安芸ひろしま武将隊」が互いにパフォーマンスを披露。当日は、ゲストに徳山毛利家第14代当主の毛利就慶さん、安芸高田市歴史民俗博物館副館長の秋本哲治さんを迎えた“関ケ原合戦スペシャルトーク”や、PRブース出展などもあり、大いに盛り上がりました。

なお、当日のステージの最後には、毛利輝元公をモチーフにわたしが企画・デザインした新しい広島城の観光キャラクター「てるてる」のお披露目も。いわゆる“ゆるキャラ”を誕生させたわけですが、わたしが作曲した、てるてるのテーマ曲をバックにみんなで“てるてるダンス”を踊って無事終幕しました。

給食完全実施や子育て支援

地域経済の活性化を促進するため、広島城天守の木造復元、毛利輝元公銅像建立など観光資源の整備と共に、わたしが注力してきたのが未来を担う子どもたちに関する問題。ひとつは、中学校給食の完全実施です。かつて広島市内の中学校で学校給食が実施されていたのは64校中、佐伯区、安佐北区、安佐南区の一部の21校だけで、旧市内などの中学校では弁当持参かデリバリー給食で対応しているのが実状でした。ただ、同じ広島市内の中学校なのに、給食がある学校もあれば、ない学校もある。できることなら「すべての子どもたちに温かい給食を食べてもらいたい」という思いから、ママさんの会のみなさんと共に署名活動を展開。その結果、わずか3か月で20,555筆が集まり、令和6年(2024年)以降、市内のすべての中学校で給食が実施される運びとなりました。

もうひとつは、こども医療費補助制度の拡充です。2年ほど前に白島学区の町民運動会の来賓として招かれた際に、1人のママさんから「広島市は子育てしにくい」という声が届きました。それを機にその方と共に「広島市が子育てしにくいまちだと感じる原因は何か?」をアンケートなど通じて探ったところ、最も多くの声が寄せられたのがこども医療費補助制度の問題でした。どこの自治体においても子どもが受診した際には、病院の窓口で保護者が医療費の2、3割を負担し、その一部を自治体が補助しています。補助率や子どもの対象年齢は自治体によって違いますが、多くの自治体では所得制限を設けていません。所得制限を設けているのは全国1741市区町村のうち96市町村、全体のわずか5.5%です。ちなみに政令指定都市20市のうち、所得制限を設けているのは広島市と札幌市のみ。広島市は主流ではない5.5%に含まれており、しかも多くの市町が高校生年代までを対象としているのに対して、広島市は、つい最近まで対象年齢が小学生まで(※令和7年より中学3年生まで拡大)でした。広島市民の意識調査でも「広島市が子育てしやすいまちである」との問いに対し、「はい」と答えたのは37.4%。裏を返せば「子育てしやすい」と回答しなかった市民が6割以上いるということです。「これは何とかしないといけない」との思いからママさんたちと共に署名活動を展開。すると、当初目標に掲げていた3か月で30,000筆を大きく上回る50,730筆の署名が集まりました。その結果、令和7年(2025年)12月議会において、松井市長は「こども医療費補助制度の拡充について検討していきたい」と明言。その言葉通り、令和9年(2027年)1月診療分から、対象年齢を中学3年生までから高校生年代までに拡大し、所得制限を撤廃する方針が決定したんです。さらに広島市は、令和8年(2026年)4月に松井市長がトップとなり、子育て支援や若者の流出対策などに各部署が連携して取り組む「こども・若者・子育て政策推進本部」を立ち上げました。歴史を変えるのは、やはり市民の声です。そして、それを実現に導くのがわたしたち議員の役目だといえます。

私人として貴重な経験も

市議会議員になって以来、公務に追われる日々ではありますが、わたし個人としてもいくつか大きな挑戦がありました。ミュージカル「EXODUS(エクソーダス)」への出演もそのひとつ。きっかけは元女子プロレスラーで歌手やタレントとしても活躍され、現在は活動の場を広島に移されているミミ萩原さんとの出会いでした。この舞台は、出エジプト記をモチーフにした、歌あり、ダンスあり、アクションありの壮大なドラマで、出演はミミ萩原さん、木村一八さん、元劇団四季や元宝塚の方々、それに東京でのオーディションで選ばれた総勢約30名のダンサーの方々など。そんな中でわたしは“神官ホテップ”という最初から最後まで出ずっぱりの重要な役を任されてしまいました。東京で行われたリハーサルに足を運び、歌、演技、ダンスのプロに囲まれていろいろ学ばせていただき、令和7年(2025年)1月18日、19日に広島県民文化センターでの公演本番へ。嬉しいことにホールの530席は完売し、満員御礼。映像をバックに会場中に紙吹雪が飛び散るなどの大スペクタクルが繰り広げられ、最後の海が割れるクライマックスシーンは圧巻で、カーテンコールの際にはわたし自身が感動してしまうほど素晴らしい舞台でした。本番まではずいぶん苦労もしましたが、夢の世界、非日常の世界にいるような貴重な経験ができました。

続いて、もうひとつは、今年(令和8年)9月13日にリーガロイヤルホテル広島で開催された「ミセスオブザイヤー2026 広島大会」です。自身にリミットを作らず、チャレンジし続ける女性を応援する―このコンテストは、以前わたしたち夫婦も出場させていただき、タイトルを受賞したことも。それがご縁で、本部から統括プロデューサーとしてオファーをいただきました。正直、お受けするかどうかためらいもありましたが、基本的にわたしはオファーに対して“NO”を言わない主義なので、最終的には受けさせていただくことにしました。ただ、自分が引き受けるからには、絶対に良い大会にしたいし、絶対に成功させたい。そこで出場者30名、スポンサー総額100万円以上、来場動員数300人の実現を目標に掲げ、大会運営に臨みました。統括プロデューサーとして出場者に向けて毎週レッスンを開催するとともに、スポンサー集め、チケット販売の手配からパンフレットやWEBサイトの制作、透明性や公平性を重視したコンテストの投票システムの構築や舞台演出に至るまで、毎日遅くまで奔走する日々がスタート。思い描く夢の大会の実現に向けて、運営スタッフ一丸となって走り回った結果、高いハードルとされていた当初目標を達成し、入場チケットも早々に完売して購入を希望される方がいてもお断りせざるを得ないような状況でした。そして大会当日、会場となったロイヤルホールを埋め尽くした来場者数は500人。本番では、出場者一人ひとりが本当によくがんばってくれ、まさに夢と感動に溢れる最高のエンターテインメントになりました。最高のパフォーマンスを見せてくれた出場者はもちろんのこと、共に汗を流した運営スタッフ、ご支援いただいたスポンサー、ご来場いただいた方々をはじめ、この広島大会に関わっていただいたすべての皆様に感謝を申し上げます。わたしにとっても心に残る素晴らしい挑戦になりました。

そして挑戦は続く!

以上、ここ数年の歩みについて振り返ってみましたが、令和7年(2025年)11月3日、文化の日には「東久邇宮文化褒賞」を賜りました。この東久邇宮文化褒賞は、高松宮記念賞、秩父宮記念賞と並ぶ“三大宮賞”のひとつで、社会に貢献した人物に贈られる栄えある賞です。正直、わたし自身、これまでの人生において賞をいただくほどの社会貢献ができているか、と言えば甚だ疑問ではありますが、広島城天守の木造復元の活動、広島城観光PRの活動、地域活動などが評価され、ご推薦をいただき、表彰していただけることになりました。表彰式の会場は、さいたま市のさいたまスーパーアリーナ近くのホテル。妻と共に出席して、懇親会では受賞者を代表してスピーチする機会もいただきました。本当に光栄なことです。今回の受賞を機に、微力ではありますが、「これまで以上に世のため、人のために尽くしてまいりたい!」と改めて決意しました。

今でもスクールガードボランティアや交通安全運動推進隊として、平日は毎朝学校近くの交差点に立って見守りを続けています。そして、日中は議会活動のほか、地域を回り、皆様のお声を聞かせていただいております。また、週末は地域行事やイベント、スポーツ大会への参加、それに安芸ひろしま武将隊の活動などが加わります。時には午前中に地域行事に参加し、午後からは武将に変身してステージに立つことも。妻には申し訳ないのですが、ふたりでゆっくり過ごす時間はありません。大変ではありますが、自分が選んだ道です。市民のみなさんに喜んでいただけるのが何よりも大切であり、みなさんの笑顔がわたしにとって最大の喜びですから。これからもみなさんのため、地域のため、広島のため、そして日本のために全力を尽くしてまいります!人生何が起きるかわかりません。何がどうなるかわかりません。平岡優一の挑戦はまだまだ続きます!乞うご期待!

《平岡優一(ひらおか ゆういち)PROFILE》

昭和43年3月25日生まれ。修道中学・高等学校卒業。関西学院大学法学部政治学科卒業。広島市で生まれたのち、父親の転勤で関西へ。幼稚園・小学校時代は関西で過ごす。中学校からは再び広島に戻り、中高6年間を過ごしたのち、大学進学で再び関西へ。広島に帰郷し、株式会社鷗州コーポレーションに入社。塾教師を経たのち、人事部で採用・研修業務を担当。さらには新規事業として英語幼稚園、上海の大学の日本校、AICJ中学・高等学校の立ち上げに携わり、学校法人AICJ鷗州学園理事、AICJ中学・高等学校副校長となり、学校運営を経験する。40歳で独立し、インフォライズン株式会社を設立。広告制作事業やプロデュース事業をスタート。宮島街道プロジェクト、広島県平清盛プロジェクト、安芸ひろしま武将隊プロジェクトなどを手掛ける。さらには社会福祉法人において人事コンサルティング、小学校、大学、各種団体において講師を務める。平成31年4月に実施された広島市議会議員選挙(広島市中区)のわずか3週間前に出馬を表明し、初当選を飾る。現在、会派は自民党・市民クラブ。

消防上下水道委員会(委員長)、大都市税財政・地方創生対策特別委員会、議会改革推進会議に所属。

【事務所概要】
●事務所名 平岡優一後援会事務所 
●所在地 〒730-0846 広島市中区西川口町1-8 益国ビル
●連絡先 Tel (082)555-8212 Fax (082)555-8213
◎公式サイト https://hiraoka-yuichi.jp/
◎公式フェイスブック https://www.facebook.com/hiraokayuichi.kouenkai/
◎優Tube【平岡優一公式YouTubeチャンネル】  
https://www.youtube.com/channel/UC8a9tG6DSxmB9G2ZctIWnEw

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