
ラジオ作り好きが高じて電工となり
五輪開催控え建設ラッシュの東京へ
子どもの頃から鉱石ラジオ作りや無線機器に熱中していたわたしは、家庭の事情もあり、中学校を卒業後、地元の電気工事店に就職し、定時制高校に通いながら電工としての技術を身に付けました。その後、東京と広島の電気工事会社での修業を経て、35歳の時に立ち上げたのが電気設備の設計・コンサルタントを主業務に掲げる「井村設備設計事務所」です。創立以降、業容拡大に伴い組織を法人化し、平成10年(1998年)からは「株式会社アイ・シー・エム」に社名変更して公共・商業施設などの電気設備の設計・コンサルティング・施工管理・BIM設計(3D)などを手掛けています。現在は、長男の俊文にバトンを託して、わたし自身は会長としてバックアップする立場に退きました。15歳で電気工事の世界に飛び込み、世の中に“快適で安心な電気環境を提供”する仕事に生き甲斐を感じ、お金よりもロマンを追い続けてきた自分も80代後半へ突入。人生の晩年を迎えたいま、波乱万丈だった今日までの道のりを振り返ってみようと思います。
多事多難な少年時代

わたしは昭和15年(1940年)12月21日、広島市西区三篠本町生まれ。広島は古くから全国一の「針の生産地」として知られていますが、縫い針製造で有名な三宅製針株式会社(現・株式会社三宅)に勤務する父と母の間に弟と妹がいる3人きょうだいの長男として育ちました。幼少時は、どちらかというと大人しくて目立たないタイプだったので近所のガキ大将の友だちから「何かあったらわしに言うんで」とよく助けてもらったものです。そして5歳になる年の昭和20年8月6日午前8時15分、広島に原爆が投下され、わたしも自宅で被爆しました。たまたま父が家にいたので助けられて大事には至りませんでしたが、幼な心にも鮮烈な記憶として残っています。

広島市立大芝小学校に入学すると運動は全くダメでしたが、勉強は好きで算数など理数系が得意でした。学校から帰ると、外で遊ぶよりも夢中になったのが鉱石ラジオ作りです。独学で知識を増やし、部品を集めてエナメルを巻いたりするのが楽しくてたまらない。そんな時、父が三宅製針で培った針の穴をあける技術を活かして独立したんですよ。設立した当初は会社も上手く回っていたので何不自由のない坊ちゃんのような生活を送れていたのですが、わたしが小学校5年生になる頃に経営が悪化して倒産してしまいました。三篠の自宅を差し押さえられたため、家族は安佐南区の祇園で会社の社宅として使用してきた物件に引越しを余儀なくされ、貧乏生活の始まりです。
引越しに伴い、中学校は広島市立祇園中学校に進みましたが、一番熱中したのはやはり小学時代から親しんでいる鉱石ラジオ作りでした。現在の株式会社エディオンの発祥地、中区本通りの電機店でパーツや無線機材を購入してハンダごてで接合したり、分解してはまた組み立てる何よりも楽しい趣味を続けるには、父の会社の倒産により困窮する生活を考えると、アルバイトでお金を稼がなければなりません。新聞配達を始めることにして学校が始まる前の早朝に朝刊、放課後は夕刊を配る日々が始まりました。最初は西原地区などの広い配布エリアを歩いて配っていたのですが、流石にしんどいのでアルバイト代を貯めて中古の自転車を買いましたよ。あと、そろばん塾に通う同級生が多い中、算数が好きな自分も行きたいのだけれど、家計が大変な親には迷惑はかけられないので自分が稼いだお金で月謝を捻出して通うことに。結局、中学3年間丸々、新聞配達を続けて、趣味のラジオ作りにしても、そろばん塾にしてもわたしのやりたいことは親を頼らずにやってきたので、中学生にして自活の精神が芽生えた気がします。
市内の電気工事店に就職

新聞配達をしながら学校に通う中学生活を過ごしたけれど、我が家にはわたしを高校に通わせるようなお金の余裕はありません。趣味のラジオ作りが高じて電気関係の仕事に興味があったこともあり、中学卒業後は母親の知人の紹介で広島市内中区十日市の電気工事店へ就職しました。入社後は、“電工”(電気関係の業務に従事する工員)になるため、いわゆる丁稚からスタート。毎朝7時に出勤してまずは、資材や材料をおぼえたり、配線などの知識を身に付けたり、屋内電気工事の現場でイチから基礎を学びました。仕事にも少し慣れてきた頃、広島にも定時制高校があることを知り、働きながら高校に通えるのはありがたいと受験勉強を開始し、入社2年目に試験を受けて広島市立工業高校電気科に入学。電工として会社に勤めながら、5年間かけて高卒の資格を取得出来ました。入学時には75人ほどいた定時制の同級生も卒業する時には半分に減っていましたが、わたしと仲の良かった6人の友人とは今でも付き合いが続いています。
その電気工事店には5年余り、お世話になりましたが、いつしか東京の大学で勉強したいという思いが募ってきたんです。19歳となり、一念発起して上京してみると、当時の東京は昭和39年(1964年)に開催される東京オリンピックを数年後に控え、都市全体が建設ラッシュの真っ最中で、工事関係者は猫の手も借りたいほど大忙しの状況でした。「こりゃあ大学に行ってのんびり勉強している場合じゃない。どこかの会社に入って仕事を覚えた方が良いな」と考えを改め、名古屋が本社の株式会社川瀬電気工業所東京支店の入社試験を受けたところ運よく合格し、採用が決まったんです。
五輪開催に向け活気づく東京へ

それまで広島の電気工事店で現場職人として働いてきましたが、東京の会社では若くても大きな仕事を任されて管理部門を学べるのが大きな魅力でした。なんと、最初の仕事から羽田空港および周辺高速道路の電機や照明の工事を担当させてもらえることに。しかも、この工事のパートナーは川瀬電気工業所とつながりのある広島のフジタ工業(現・株式会社フジタ)です。ある時、わたしが喋る広島弁を耳にしたフジタ工業の現場所長さんが「井村君も広島の人間か?」と声をかけて下さったのを機に、それからは広島同士ということで現場のみなさんに何かと良くしていただけるようになりました。オリンピックに向けて急ピッチで進められる大都市の開発工事はスケールが大きく、自分としては見るもの、聞くもの初めてばかりで興味津々です。仕事はしんどいけれど、良き先輩や仕事仲間に恵まれた職場が楽しくてたまりません。専門的な知識を増やすための勉強にも励みましたし、新天地・東京での毎日は、ことのほか充実していましたね。こうして東京支店で2年目を迎えた頃に、広島の実家から父が胃がんの手術をして具合がよくないという話が飛び込んできました。仕事が楽しく、やりがいを感じていたものの、長男でもあるし広島に帰らないといけないと思い、会社に事情を話して退職を申し出たところ…。
大竹市・三井化学の現場で

上司から本社に呼ばれて「ちょっと待て。ちょうど広島県大竹市の三井化学のプラント関連の受注が取れたので、ベテラン社員のアシスタントとして、その現場に行くというのはどうだろう?」と打診されたんです。大竹市ならば広島の自宅から通えるので、これほどありがたい話はありません。会社を辞めなくてもすむし、二つ返事で引き受けました。さて、三井化学での仕事は、ここ最近(※2026年)、中東情勢に伴う供給不足で知られるようになった“ナフサ”を三井石油が作って、日本で初めて三井化学がPP(ポリプロピレン)の基本となる材料を作る工程の関連工事でした。ドイツ、スイス、アメリカなどの海外製と日本製鋼所製の5台の押出機をテストしたりする業務ですが、機械の説明書は全てドイツ語や英語で書かれており、自分たちはもちろん、高齢の方が多い三井化学の担当者さんたちもチンプンカンプンで、まさにお手上げ状態だったのです。何か打つ手はないかと考えた末、頭に浮かんだのは広島市立工業高校時代の語学の先生の力を借りることでした。先生の自宅を訪ねて原文を翻訳してもらい、専門用語の部分などは自分も独学で勉強して、なんとか解決できたんです。おかげで、わたしの評価は急上昇、外国の機械を導入する度に「担当は井村君に!」と指名がかかるようになりました。三井化学の現場には、トータルで16か月ほど赴任しましたが、現場まで毎日自宅から通勤できる便利さや、父の病気のこともあって里心がついたのかもしれません。東京に帰らず、このまま広島で勤めたくなったので、その思いを支店長に伝えると「井村君を待っている東京支店の仕事があるので戻ってきてもらわなくては困る」と告げられたんです。ひとまず、父にも相談したら「東京に帰っても良い」と言ってくれたので、支店に戻ることになりました。
東京に戻り大型案件を担当

復帰した東京支店で最初に担当を命じられたのが埼玉県の熊谷に新設するスレート工場全体の電気工事でした。この現場ではスレートを作るドイツ製の機械を導入するため、どうやら三井化学で外国製の機械に対応できた実績が買われて、わたしに白羽の矢が立ったようです。熊谷の任務が完了すると、休む間もなく、いよいよオリンピックが間近に迫ったことで建設ラッシュに拍車のかかった東京都内での工事からお呼びがかかりました。フジタ工業が元請けとなって行う池袋の地下商店街(※現在の「池袋ショッピングパーク」)の大型工事です。地下商店街と都内初の公共地下駐車場の工事を行うにあたり、日本初のフローティング・アイランド工法を採用したり、ダブルスパイラル方式の駐車場出入口などが注目された大きな現場でしたが、なんとフジタ工業から直々に「井村君に担当させてくれ」と指名があったとか。担当に指名されて光栄でもありましたが、何より嬉しかったのは遠藤さんという工事の設計管理を行う素晴らしい技術者の方に出会えたことです。知らない技術や工法について理論的に解説してくださるし、ずいぶん可愛がっていただき、若い自分にとって師匠のような存在でしたね。
昭和39年に池袋の大型工事も完成し、ひと段落した頃、わたしの身に予期せぬ災難が降りかかりました。仕事先へ電車で移動していた時に急にひどいめまいがして車内で倒れ、病院に運ばれたんですよ。検査してみると、子どもの頃に中耳炎を患って左耳がよく聞こえない持病があったので、それが原因らしく、早く手術をしなくてはいけない状況とのこと。支店の営業部長が東京の病院を紹介してくれたのですが、自分としては昔から慣れ親しんだ故郷・広島の病院の方が安心できるので会社に一時帰省させてもらい、地元で手術する道を選択しました。広島市民病院での手術と治療により、体調は快復したけれど、自分の体調や実家の父の病状などを考えると、やはり東京支店で仕事を続けるよりも、これからは広島で働きたいという気持ちに傾いてきたんです。とりあえず一度、東京支店に戻って正式に退職を申し出ると、ありがたいことにずいぶん引き留めていただきました。ただ、今回は、わたしの決意が変わらず、多様な大型工事の現場で多くの技術や知識を習得させてもらうなど、5年間お世話になった会社に感謝を伝え、別れを告げた次第です。
東京での経験を広島で活かす

昭和40年(1965年)、25歳を迎える頃に広島へUターンして就職したのが電気設備の設計・施工を主業務とする市内中区のヱビス電工株式会社でした。同社は昭和3年に創業、地元業界では歴史のある会社ですが、東京の現場で最新の施工管理を身に付けたわたしからすれば入社早々、古い体質から脱却して改善すべき点が多いことに気が付いたんです。例えば、電気工事は営業が工事を受注して現場が決まると、工務の担当が実行予算を作る流れで進みます。しかし、同社では実行予算の作り方が、まさにどんぶり勘定そのもの。当時、会社の番頭的な立場だった専務に実行予算の算出を見直す提案をすると「では、井村君に任すので変えてみてくれ」と許可してもらえました。早速、取り掛かると、古い会社だけに従来のやり方を通してきた現場から不満も出たようですが、専務の後押しで押し切って適切なシステムに変更。社内合理化のお役に立てたようです。ところで、ヱビス電工入社と同時期には自分の生活にも変化がありました。高校時代に6人の友人と定時制同士の女子校との交流会に参加した時に知り合って、ずっと付き合ってきた彼女と結婚したんですよ。よく考えてみると広島に帰って来たかった本当の理由はこれだったのかもしれません。その後、妻との間には26歳で長男を29歳で長女、32歳で次女を授かり、守るべき家族が出来て仕事にもますます身が入るようになりました。

ヱビス電工で実務に移ると、わたしが担当を任されたのは、国交省(旧建設省)、防衛省の公共工事の現場でした。様々な工事を経験する中、とりわけ国交省の現場では、全国どこでも通じるような最新の技術やノウハウを仕込んでいただけました。併せて、学んだことをより深く理解するため、自分でも必死で勉強したものです。その努力もあったのか、電気設備工事の決めごとが全て記されている仕様書を丸暗記して現場検査に臨んだところ、何を聞かれても正確に答えられるし、手直しゼロなので検査官に驚かれたことも。こうして、自分なりに奮闘した結果、国交省の案件では業界大手の間でも「電気工事に関してはヱビス電工の井村君に教えてもらえ」と評判になったようで、わたしを後押ししてくれた専務にも喜んでもらえたみたいです。

他にも同社では建設省管轄の呉市の中国労災病院(※現・独立行政法人労働者健康福祉機構中国労災病院)の電気設備維持管理はじめ、広島市の広島東税務署の電気工事などを担当しました。広島東税務署の工事では、建設工事業の「建築」「機械」「電気」の3部門の優良企業に制定された局長表彰をいただけましたし、現場をこなすごとに周りの評価も上がり、仕事が順風満帆に進んでいくと、お客さんから独立の誘いを持ち掛けられることも増えてきたんです。確かに自分でも、いずれは独立したい気持ちを抱いていましたが、かと言って広島に帰って来て以来、専務に重宝していただいてお世話になってきたヱビス電工と同業の電気工事で独立するわけにもいきません。その時、頭を過ったのが東京と広島で様々な電気工事の現場を経験して自分のやりたかったこと。すぐに浮かんだのが電気設備に携わる中で一番面白さを感じていた“設計”です。そういえば、子どもの頃から部品を集めて好きなように鉱石ラジオを組み立てる、即ち、何もないゼロの状態から自分で描いた形にするのが好きでしたからね。言うなれば、どの工事業においても施工は設計した図面をその通りになぞる作業ですが、どうせ独立するなら昔から憧れていたわたしの思い、そのものを形に出来る仕事をやってみたい。腹が決まると、約10年間、沢山の経験と勉強をさせていただいたヱビス電工を退社することを決め、昭和50年(1975年)4月、電気設備の設計・コンサルタントを主業務に掲げる「井村設備設計事務所」を立ち上げました。35歳を迎える年のことです。《後編に続く》
《井村紀昭(いむら のりあき)PROFILE》

株式会社アイ・シー・エム会長。昭和15年(1940年)12月21日、広島市西区出身。
広島市立祇園中学校卒業後、広島市内の電気工事店に就職。電工として働きながら広島市立工業高校定時制電気科を卒業した後、上京。名古屋が本社の株式会社川瀬電気工業所東京支店に就職し、昭和39年(1964年)の東京オリンピック開催を控え、建設ラッシュの東京や広島県大竹市・三井化学の現場で電気設備工事の管理部門を学ぶ。
昭和40年(1965年)広島に戻り、市内中区のヱビス電工株式会社に就職。国交省、建設省、防衛省の公共工事を担当してキャリアを積み、手腕が評価される。昭和50年(1975年)4月、電気設備の設計・コンサルタントを主業務とする井村設備設計事務所を創立。昭和55年(1980年)4月、組織を法人化し、株式会社アイ・シー・エム設備計画を設立、平成10年(1998年)9月、株式会社アイ・シー・エムに社名変更。ランドスケープを得意とし、県・国交省・地方自治体などの公共工事で施工実績を増やす。平成30年(2018年)11月、長男・井村俊文氏に代表取締役のバトンを託し、会長に退く。
【会社概要】
社 名 株式会社アイ・シー・エム
本社所在地 〒733-0021 広島県広島市西区上天満町2-16 BAUHOUSE 2F
TEL 082-296-5522 FAX 082-296-5757
創 業 昭和50年(1975年)4月
資本金 1000万円
事業内容 電気設備設計・コンサルティング・施工管理・BIM設計(3D)
事務所登録 一級建築士事務所 広島県知事登録 23(1)3118
設備設計一級建築士 第2174 号
従業員 10名
有資格者 設備設計一級建築士 1名 建築設備士 2名 1級電気工事施工管理技士 5名
加入団体
一般社団法人日本設備設計事務所連合会
一般社団法人広島県建築士事務所協会
一般社団法人広島県設備設計事務所協会
広島商工会議所
主取引先 広島県・広島市・他市町
〇ホームページ https://kk-icm.com/

