学生時代は剣道ひとすじ!
水道工事屋の2代目に嫁ぐ
幼い頃からお転婆で学生時代は剣道ひとすじ。そんなわたしが縁あって水道工事屋の2代目と結婚し、3人の娘を授かりました。人生が一変したのは50歳の時のことです。主人が急逝したため、わたしが社長を継ぐことになりました。以来、男社会の現場で様々な経験を積む一方、現在はトータルビューティーサロンを会社に併設して女性の美容と健康のトータルサポートを提供したり、ミュージカル歌手としての活動などにも挑戦しています。平凡な主婦として暮らすはずだったのに…紆余曲折のひとことでは語り尽くせない今日までの道のりを振り返ってみます。
わたしは昭和40年6月14日、広島市内で生まれました。家族は両親と3つ違いの兄。父はサラリーマンで、幼稚園までは中区吉島に住んでいました。幼い頃は、何しろお転婆だったそうで、干潮で水が引いた川の底へ三輪車を運んで乗ろうとして近所の人にひどく怒られた時のことは今でもよく覚えています。その後、引越しした東区馬木で安芸小学校(現・上温品小学校)に進学すると、今度は自宅の裏山がお気に入りの遊び場でした。毎日、野山を駆けまわっていたのでケガも絶えず、転んで大流血したことも。この時は、たまたま近くにいた友だちのお父さんに止血してもらって大事には至りませんでしたが、今でも手首にその時の傷跡が残っています。そういえば鉄棒が得意だったので前回りや後回りが出来るようになると、つい手を離して回ってみたくなり、地面にたたきつけられた、なんてこともありました。
とにかく身体を動かすのが大好き。髪の毛を三つ編みにしてもらってもすぐにバサバサにほどけてしまうくらい元気で活発な子どもだけに、机についての勉強は大の苦手でした。足の速さが自慢で陸上の短距離走は学年でトップだったこともあり、体育の時間や休憩時間はクラスで一番目立つのだけれど、普通の授業中はどこにいるのかわからないほど地味な存在になってしまうんです。考えてみると小学校6年間は運動会の予行演習と本番当日だけを楽しみに通っていたような気がします。
中学校は安芸中学校に進学しました。クラブ活動を選ぶにあたり、「陸上部かバレーボール部、テニス部もいいな」と考えていたところ…。若い頃に柔剣道をやっていた父から兄と同じ剣道部に入ることを勧められました。わたしは「嫌だ!」と断っていたのですが、しばらくして兄の友人から当たり前のように防具を渡されたんです。そこまで流れを作られると断ることもできず、仕方なく剣道部に入部して竹刀を振る日々が始まりました。1年生の9月には新人大会が行われたのですが、なんと女子部員7人のうち、わたし一人だけが出場選手に選ばれなかったのです。たしかに実力不足は否めないけれど、入部以来、一日も休まず練習に打ち込んできた自分がメンバーから外されてショックを受けたこの出来事によって、わたしの中でスィッチが入りました。
2学期からは勉強そっちのけで猛練習に励むと、いつの間にか男子部員を負かしてしまうようになり、他校との試合でも「市場(※旧姓)由美子が対戦相手か⁉」と恐れられるほど強くなれました。そんな折、父が病に倒れ、わたしが中学2年の時に帰らぬ人に。自分が剣道部を勧めたこともあり、娘が全国大会に出場するのをとても楽しみにしていたようです。父が亡くなる前に「絶対に全国大会に進んでみせるから!」と約束したことがわたしのモチベーションになっていたのだと思います。その後、中学3年の夏の大会で、わたしがあと一本とれば、全国大会出場が叶うという試合で負けてしまった時は、父との約束を果たせなかったのが悲しくて大泣きしましたよ。あまりの悔しさがバネになったのか、秋の県大会ではわたしが個人戦で優勝し、併せて団体戦も優勝。引退の花道を飾ることができました。
そして高校受験を迎える頃、自分としては剣道部で練習に出かけて馴染みのある安芸高校に行きたかったのですが…。父が亡くなる前に母が「二人の子供を必ず大学に行かせるから安心して」と伝えていた光景が頭をよぎりました。冷静に考えてみると剣道に明け暮れ、勉強はからっきしダメなわたしが公立高校に受かるはずがありません。無謀な挑戦を試みて落ちるのも恥ずかしいので、私立高校に的を絞って受験したところ、鈴峯高校にどうにか合格することができました。
晴れて女子高生になれると、クラブ活動に選んだのは、もちろん剣道部です。早速入部したところ、全国大会に出場する5人のメンバーを決める勝ち抜き戦で先輩たちに強い人もいる中、たまたま勝つことができて代表選手に選ばれたんです。1年生で、山梨県で行われたインターハイに出場できるとは夢にも思いませんでした。何よりも「全国大会に出場してみせる」という父との約束が果たせたのが嬉しかったですね。こうして剣道部で汗を流しながら高校3年間はつつがなく進みました。
大学を受験するにあたり、わたしは将来、体育教師になりたかったので福岡の体育大学を志望したのですが、県外に進学した兄と違い、娘は親元に置いておきたかったのか?三者懇談に同席した母からばっさり反対されました。結局、母に従って高校からエスカレーターで鈴峯短期大学に進学することに。短大時代は剣道部がなかったので竹刀を振る生活から離れ、大学の学生自治会に籍を置いて自治会長として活動する傍ら、プライベートな時間を満喫していました。ドライブ、旅行、コンパはもちろん、短大入学前の春休みにバイクの中型免許を取得していたので、兄のバイクを借りてツーリングに出かけたり。高校生までの日課だった剣道の練習から解放されて、少しはじけたのかもしれません。
楽しかった短大時代はあっという間に過ぎ、次は就職です。身の程を考えず、大手企業ばかり狙ったところ、軒並み撃沈してしまいました。行き先がないので学生自治会長の時にお世話になった先生から欠員募集をしている「カネボウディオール事業部広島支店」を紹介されました。わたし自身は、アパレルを扱う会社にも関わらず“カネボウ”イコール化粧品くらいの認識しかなかったのですが、欠員募集とあって形式的な試験だけで運よく入社できたんです。入社後は、店舗にアパレル商品を受注発注する営業事務に配属され、男性セールスのアシスタントとして、広島市内の百貨店の婦人服やスポーツ衣料の売り場を回ったりしていました。ちなみに当時のわたしは剣道で鍛えた身体の洋服サイズが11号で、容姿を気にするタイプでもありません(※今は違います!ねんのため)。小柄でおしゃれな可愛い同期とは異質な“化粧ッ気のない大柄な新人が入って来る”と噂になっていたみたいです。
会社の仕事はとても楽しく、やりがいを感じる毎日でしたが、休日になると兄のバイクを借りて一人か、バイクショップの仲間とツーリングに出かけてばかり。それを見かねた高校・短大時代の友人のお節介が始まりました。彼女の彼氏の友人とわたしをカップルにしようと企んで、「“バイクに乗る男っ気のない女”と“バイク好きの女っ気のない男”ならば相性ぴったり。いい人がいるので一度会ってみない?」と話を持ち掛けてきたんです。意外に堅物だったせいか「自分で好きになった相手ならともかく、人の紹介で付き合うなんてありえない」と何度も断っていたら、しびれを切らした友人が「じゃあ、私たちカップルと一緒に4人でボウリングに行こう」と作戦を変えてきました。嫌々ながら誘いに応じてみると…。スポーツには自信があり、ボウリングも大得意だったわたしが、紹介された男性にコロッと負かされたんですよ。
身体がガッチリしてクマのプーさんみたいな外見で、初対面ではピンときませんでしたが、ボウリングの腕前は素直に「すごい」と思いました。ボウリングの後は友人カップルに背中を押され、2人でドライブに行くことに。話してみると人に対して誠実で思いやりのある人だとわかりました。一番印象的だったのは吸ったタバコをきちんと消して灰皿に捨てる姿でした。昔からゴミをポイ捨てするような人が大嫌いだったので、タバコを捨てるだけの本当に些細なことがわたしの琴線にふれたんです。
この出会いを機に、スキーやゴルフにデートに出かけるようになり、21歳から一年半ほどの交際期間を経て結婚、会社も寿退社しました。主人は2歳年上で、義父が創業した水道工事業「有限会社寺西設備」の2代目でした。バブル期に入り、建設業などが“きつい”“汚い”“危険”の頭文字で「3K職種」と呼ばれた頃、それが家業の2代目に嫁いだわけですが、当の本人は、あまり深く考えていませんでしたね。
嫁ぎ先のご両親は、寡黙で職人気質の義父と、しっかりして“かかあ天下”の義母。結婚する時に「新居は会社の近所に借りても良いけど、実家に離れを建てて上げても良いし、どちらにする」と希望を聞かれ、一緒に住むことに特に抵抗はなかったので、離れを建てていただくことをお願いしました。義父母と半同居生活がスタートし、水道工事屋の嫁になったことを実感したのは新婚旅行先のハワイから帰宅して義母に呼ばれた時です。「由美子さん、帳簿を写してもらえる?」と頼まれたのですが、OL時代は営業事務だったので帳簿なんてつけたことがありません。
経理をイチから勉強しなくては!と、大いに焦ったものです。もっとも、義母は何でも自分の考えを強制することはなく、まずはわたしの意思を尊重してくれるので助かりました。母屋と離れでの半同居とあり、食事の支度についても「2世帯で一緒にするか、別々にするか、どちらがいい?」といった塩梅です。ちなみに食事については「朝食はご両親のように早起きができないので別、土日は水道局が休みなので別、そのほかの食事は一緒にお願いします」と希望を伝え、そのスタイルでやっていくことになりました。
ひとまず流れも決まり、嫁と姑が一緒に台所に並んで食事の支度をするはずですが、このお嫁さんは竹刀ばかり振っていた箱入り娘?なので、帳簿だけでなく、料理もほとんどやったことがありません。主人とデートの際は母にお弁当を手伝ってもらっていたぐらいです。料理もイチから学ぶ必要があり、義母に「片づけはわたしが全部やりますから、お義母さんが調理するのを後ろで見学させてください」とお願いしたんです。3か月ほど見習いを続けた頃には、こんな出来事もありました。義母から「由美子さんもそろそろ一人で大丈夫でしょう。ポテトサラダを作っておいて」と頼まれたので早速、チャレンジしてみると…。ゆで卵がうまく固まっていなかったため、つい電子レンジで温め直してしまいました。その結果、ご両親がいた隣の事務所に駆け込んで「お義父さん、お義母さん、大変‼レンジの中で卵が大爆発してしまいました!」。慌てふためくわたしの姿を見て、義父母に大笑いされたのは懐かしい思い出です。
水道工事屋の嫁として奮闘する日々が続く中、助け舟となってくれたのが岡山に嫁いだ義姉、つまり主人のお姉さんの存在です。いつお客さんが訪ねて来られるかわからないので店を空けることができない商売柄、義母とわたしのどちらかが店番をしなくてはならないので、なかなか外出できません。お義姉さんは岡山に嫁いでいて、たまに3人の子供たちを連れて帰省されるのですが、結婚当初から仲良くしてくれて、寺西家では唯一の遊び相手のような存在となり、ずいぶんお世話になりました。あと主人も家業に従事する中で、さりげない気配りがとても上手でした。どちらに肩入れするでもなく、うまくバランスを取ってくれるので、わたしもストレスを感じることなく、義父母を頼っていけました。おかげで25歳の時に長女を出産したのを皮切りに、27歳で次女、32歳で三女を授かりましたが、義父母と主人の心強いサポートもあって、家事にも仕事にも慣れていくことができました。
会社のことを少し補足すると、有限会社寺西設備は、義父が創業し、2017年に創業50周年を迎えた水道工事屋で、広島市を主体に日常生活に欠かせない水回りの器具新設・メンテナンス・修理などを行っています。わたしが嫁いだ頃は本管工事なども手掛けていたので羽振りも良く、従業員も8人ほど抱えていましたが、仕事を覚えて資格を取得すると辞める人も少なくありませんでした。当時の水道工事業は、有資格者を必要とする制度もあり、嫁いで間もない頃、義母から「わたしも所有する“責任技術者”の資格は取得しやすいので由美子さんも受けてみたら」と勧められ、挑戦してみることに。その言葉通り、すんなり合格したので、友人に経理ができないことを伝えた時に「こんな資格もあるよ」と教えられた“建設業事務士”の取得にも、勢いのまま挑戦することになりました。全く自信がないので、試験に出そうな内容を丸暗記して臨んだところ、驚くことに4級、3級、2級と順調に取得できたんです。流石に1級は難度が違うし、ランクの高い入札工事に必要とされる資格なので、ウチの業務には不要だと分かって取得をあきらめましたが…。
自分の資格が増えてくると、31歳の頃に“配管工”も取っておこうと思いました。というのも、今までのように水道工事に必要な資格を所有する社員が辞めていくと会社が不安定になるため、主人に加えて身内のわたしが配管工の資格を持っていれば、一生会社が継続できると考えたんです。当時は公共工事も請けていたので、忙しい時は人手が足りず、小さな工事などはお断りしている状況でした。主人に「なんなら、わたしも修理班になっていいよ。職人気質でどんな修理にも誠実に対応するお義父さんのことを尊敬しているから、お義父さんに弟子入りする!」と伝え、現場経験のないズブの素人の無謀な挑戦が始まりました。
この時は、女性の配管工の有資格者が広島市にもまだ1人しかいませんでした。同じ年に試験を受ける女性も2人いましたが、彼女たちはもちろん現場経験者です。ところが、やる気満々のわたしに一つ大きな問題が起こりました。最初の筆記試験を受けていた頃に生理が来ないし、お腹も大きくなってきた気がするので、もしかしたら妊娠かも⁉。この先、現場での実技試験も控えていて、妊婦だとわかると試験が受けられなくなる可能性もあり、主人にだけ事情を伝えて、まずは受験を続けることに。「わたしには補習など受けている時間はない。どの科目も一発合格しなければ」と自分にいい聞かせ、日曜・祝日も昼夜関係なく実技の練習に明け暮れたところ…。思いが天に通じて、合格することできたんです。肩の荷が下りたので、すぐ病院を受診すると、来週で妊娠5か月を迎えるため、すぐに母子手帳をもらいに行くように告げられました。帰宅して妊娠していたことを初めて義母に報告すると「まぁ‼そんな身体で試験を受けたの」と、めちゃくちゃ怒られました。
わたしの試験の話は水道工事の業界でもかなり評判になったようで、配管工の資格取得に苦戦する職人さんたちから「現場を知らないど素人の寺西設備の奥さんが、しかも妊婦で一発合格したのに毎日、現場で作業しているお前らがなぜ受からないんだ、と講師に怒られましたよ!」なんてよく言われたものです。実は、妊婦の時には配管工のついでに “排水責任技術者”の資格も取得していたんです。試験は机上で図面を引いたり、筆記試験が主体だったので、いつものように丸暗記で対応。面接で少々難儀したものの、なんとかセーフでした。
不思議なことに、子供の頃から学校の勉強が大嫌いで成績の悪かったわたしが、これまで受けた資格試験だけは全て一発合格できて、落ちたことがないんです。どの試験も知らないことばかりなので、人に言われる通りに素直に勉強しようと思うのが幸いしたのかもしれません。以前、試験の講師の方に「勉強が苦手だったわたしが大人になってこんなに勉強するとは思わなかった」と愚痴をこぼすと、「寺西さん、生涯勉強ですよ」と諭され、「なるほど」と少しだけ納得できました。
配管工など、水道工事に関する資格も取れ、「さぁ、これからはわたしが修理にも行けるし、家業の戦力になれる」と張り切っていたところ、小学校に上がった長女のPTAのクラス役員、しかも学年代表に選ばれてしまいました。だんだんPTAの活動が増えてきたし、まだ赤ちゃんだった三女もいるため、結局、家業では経理だけを担当することになり、せっかく取得した資格を使う機会がありません。のちに主人が「寺西設備の有資格者として、書類上では寺西由美子の名前が大活躍してくれたよ」と慰めてくれたのが、唯一の救いです。ともあれ、水道工事屋の嫁として、3人の娘の母として、忙しい日々を送っていたわたしに、予期せぬ困難が次から次へと降りかかってくることになるとは…この頃は夢にも思いませんでした。《後編》に続く。
■寺西由美子(てらにしゆみこ)PROFILE
有限会社 寺西設備 代表取締役。
トータルビューティーサロン placidez.(プラシデス.) 代表。
1965年6月14日生まれ、広島市出身。鈴峯女子短期大学卒。
【保有資格】
〇配管工 〇給水装置主任技術者 〇排水設備主任技術者 〇2級土木施工管理士〇スキンケアアドバイザー 〇MAKE UP CREATOR 〇パーソナルカラーリスト〇ヒューマンカラーアナリスト 〇スマイルクリエーター 〇四柱推命鑑定士〇剣道五段
【趣味】
ミュージカル鑑賞、スポーツ、ミュージカル、歌
※「寺西 悠里惠」名義でも活動中!
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■有限会社寺西設備
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配管工事、衛生設備工事、管工事、給排水設備工事、水道衛生工事・保守、水道衛生設備工事、水道衛生設備保守、井戸ポンプ工事
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■Relaxing salon placidez.〈プラシデス〉
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トータルビューティーサロン(スキンケアサービス フェイシャル・ボディエステ他)
〒731-5125 広島県広島市佐伯区五日市駅前2-6-30
営業時間 10:00〜19:00 日祝定休、他不定休
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