【三度の飯より野球じゃけん 】
Vol.6 鬼軍曹はエンターティナー

【三度の飯より野球じゃけん 】


野球関連の出版物やインターネットの映画評論で活躍中のライター大藤恭一氏が野球ファンに知られざるエピソードや感動秘話をお届けします。

年が明けて1月5日。関東の私立高校の野球部監督が、傷害容疑で書類送検された。去年9月26日、自分が指導する野球部の部員に、グラブを外させ約35メートルの距離からノックを捕球させ、左手に3週間のけがを負わせた疑い。該当の一年生の野球部員は3球ノックを受け、左手に三週間の挫傷を負った。(※朝日新聞DIGITAL 2021/1/6)

この35メートルという距離だが、野球規則によると、ホームベースとセカンドベースの間が38.795メートルと、ほぼそれに当たる。監督は「技術向上のためで、けがをさせるつもりはなかった」と釈明している。

いわゆる素手ノックだ。この素手ノック、筆者も目の当たりにしたことがある。ノックバットを振るのは、鬼軍曹・大下剛史。受けるのは高橋慶彦移籍のあと、ショートを任されることになる野村謙二郎。

秋の日南キャンプ。その中休みの日。守備に不安がある野村が休日練習でノックを受けていた。練習が休みだと、取材陣にとってはネタ枯れ、ネタ薄の日ということになる。そんな中で、休日特訓は格好の埋め草になる。グラウンドを張っていたどこかの新聞社から一報があり、各社、三々五々集まってきた。筆者もその流れで球場入りした。したがって、野村が何球くらいノックを受けていたのか、わからない。午後の遅い時間だった。

このときノックバットを振っていたのは、大下ではない。大下は三塁側の内野スタンドの上方に立っていた。腕組みをして。この項でよく取り上げるが、まるで息子の特訓を見守る『何とかの星』の一徹父ちゃんのごとく。しかも三塁側というところが、また取材陣をくすぐる。日南・天福球場の取材は、一塁側からのみという決まりがあるのだ。三塁ベンチ上方は「一塁側のマスコミのみなさん、どうぞ撮影してください」という位置なのである。

さて、野村の守備練習である。そろそろ場面は温まってきた。われらが一徹父ちゃん、ノッカーに名乗りを上げた。球場は一挙に緊迫感に包まれた。叱咤の声とともに、一徹父ちゃんのノックが始まった。

「あッ!」取材陣の誰かが声を上げた。何球もノックが続いて、野村がグラブを落としたのだ。長時間の守備練習で、左手の握力が落ちたのかもしれなかった。球場に集まったみんながグラウンドの成り行きを見つめていた。そろそろ日没。空が赤く染まっていた。

大下と野村は、今の時代珍しくなったプロ野球の師弟関係といえるだろう。一昔前は、この名選手にこの名伯楽と、選手と指導者に密接な関係があった。有名なところでは、王貞治と荒川博。1954年の隅田公園。中学二年だった王が打席に立つのを荒川はたまたま目にする。「ボールは左で投げるのに、なぜ右打席に立つんだ?」と言って、左打席に変えさせた。王のバッターとしての躍進はここから始まる。そして1962年。巨人にコーチとしてやってきた荒川は、王に一本足打法を授ける。あとは知っての通りだ。

カープには、衣笠祥雄と関根潤三という師弟コンビがいた。1970年、カープに打撃コーチとしてやってきた関根は、毎夜宿舎の屋上で衣笠にバットを振らせた。嫌になって飲みに出た衣笠。関根はその帰りを深夜三時まで宿舎の玄関で待っていたという。手にバットを持って。

江夏豊もそうだ。阪神から南海へと移籍した江夏は野村克也から「野球界に革命を起こそう」と口説かれ、1977年6月、日本球界初のリリーフ専門の投手となった。1978年、カープに移った江夏は、大野豊の指南役となった。同じ「豊」という名前で、同じく母子家庭で育った。左利きというのもそう。野村から野球を教わった江夏は大野に後継を求めた。江夏は大野にキャッチボールから教えた。

あまり知られてないが、松山竜平選手と新井宏昌コーチの関係もそうではなかったか。選手としては二千安打を達成、オリックス、ダイエーなどでコーチを務めた新井は2013年、カープの打撃コーチを就任する。まもなく三連覇を達成するカープだが、その中軸の一人、松山は熱心に新井の指導を聞いていた。バットの寝かせ方、構えた時の背中の立て方などなど。松山の打撃成績は、前年の打率.204(137打数28安打)からこの年.282(378打数105安打)と、飛躍的に上がっている。だがこの指導は、ほかの打者にはあまり響かなかったようだ。新井と松山には、共通点がある。ともに右投げ左打ちだ。利き手が「引き腕」というところにポイントがあったかもしれない。ちなみに当時、丸佳浩もカープにいたが、彼は左利きの右投げ左打ちなので、この例に当たらない。

いくつか、選手とコーチの蜜月について触れた。だが、例がどれも古い。最近は、このコーチあってのこの選手、といった関係はあまり聞かれなくなった。ニューヨーク・ヤンキースから楽天に戻ってきた田中将大にしても、ミネソタ・ツインズの前田健太にしてもそうだ。寡聞にして筆者が知らないだけかもしれないが、野球の習得法・練習法が成熟してきたような気がする。上達についてのシステム化はチャンスが等しく訪れるので、選手にとっては良いことだろう。その分、人間臭いところが希薄になった。

そうそう、大下と野村の話だった。場面を天福球場に戻す。大下が叫んだ。「どうしたッ!もう終わりか?」。グラブを落としたまま、野村が返した。「もうイッチョ来い!」。左手は素手のままだ。「おっしゃあーっ!」。大喝一声、大下は気合もろともノックした。ボールは緩く弾んだ。掛け声とは違い、どう見ても手加減したノックだ。大下と野村との距離の真ん中あたりからはコロコロと転がった。左手でボールを掴んだ野村が「痛ってー」と叫んだ。

「今日はこれくらいにしといてやる」。新喜劇のセリフみたいなのを残して、鬼軍曹は退場した。明日の朝刊見出しが決まった。『野村、休日特訓!鬼軍曹のノックを素手で捕球‼』。手加減した素手ノックには大人の味わいがあった。1990年ごろの話だ。

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