昭和20年(1945年)8月6日、人類史上初めて原子爆弾が投下された広島。「75年間は草木も生えぬ」と言われた廃墟の街は先人たちの尽力により、目覚ましい速度で復興を遂げたが、被爆者や当時の様子を知る人が減少の一途を辿る中、広島に暮らすわたしたちには二度と繰り返してはならない出来事を決して風化させることなく、未来に伝えていくべき使命がある。「HIROSHIMA PERSON」では、広島から情報を発信する媒体としてコロナ禍で世界中が混とんとするいま現在も、その使命を果たそうと地道な活動を続ける人たちを紹介していきたい。
第1回は、中国放送の記者として原爆報道に長年携わる一方、個人の立場で原爆小頭症被爆者と家族らの集い「きのこ会」の事務局長を務める平尾直政氏さんにお話を聞いてみた。
―原爆や平和に関心を持たれたきっかけは?
わたしは東広島市安芸津町という広島市からは少し遠い土地で生まれ育ったこともあり、原爆や平和について正直なところ、それほど身近なものとは感じていませんでした。大学を卒業して中国放送に入社、報道カメラマンとして1988年にニューヨークで開かれた国連軍縮会議の海外取材に参加した際に、話題にのぼっていたネバダ州やスリーマイル島の核実験よりも、もっとひどいことが自分たちの地元広島で行われていた事実を知り、愕然としましたね。帰国後、入手した山口放送のジャーナリスト・磯野恭子さんの著書を通じて、母親の胎内で被爆し、生まれながらにして知能や身体的にハンディを背負う原爆小頭症のことを知ったのが今の活動の原点です。
―原爆小頭症との最初の関わりについてお聞かせください。
それまでも平和公園での座り込みや折り鶴を掲げて平和を訴える人たちを見かける度に「メディアが取材しないと意味がないのでは…」と思っていたので、当時の先輩に「原爆小頭症についてなぜ取材をしないのか」と呼びかけてみたところ、「自分でやってみろ」との返事がありました。そして、初めて制作に携わったのが父親のことを“おとう”と呼ぶ主人公の原爆小頭児の日常を記録したドキュメンタリー番組「おとう~原爆小頭児の45年~」です。番組取材の縁で関係者との交流が始まり、仕事を離れても小頭症被爆者の姿を家庭用のビデオで記録していくうちに、家族が抱える問題の深さに気付くことになりました。
―小頭症被爆者の方はもちろんですが、ご家族が抱えておられた問題とは?
原爆小頭症は、母親の胎内で被爆したことにより、同世代に比べて頭囲が小さく、先天的に知能や身体に障がいが生じるもので、遺伝によって発症する病ではありません。しかし、周囲から好奇の目で見られ、いわれのない差別や偏見にさらされることから、小頭症被爆者を養う家族についても就職、結婚などの折に支障をきたすなど、当事者のみなさんには計り知れないほどのご苦労があることを痛感したんです。知れば、知るほど自分自身の思い入れが強まる中、わたしを導いてくれる人と出会いました。会社の大先輩であり、原爆小頭症の支援活動に尽力されていた秋信利彦さんです。
―平尾さんにとっては運命的な出会いですね。どんな方でしたか?
秋信さんは、中国放送の前身であるラジオ中国に入社したのち、ラジオディレクターを皮切りに編成・営業・報道記者などを経て、報道局長、常務取締役を歴任された方で、社業以外に個人の立場で原爆小頭症を綿密に調査し、その存在を社会に初めて知らせたり、小頭症被爆者と家族を支える「きのこ会」の設立に奔走するなど、精力的な支援活動に取り組まれていました。会社内ではご自身の活動について多くを語られませんでしたが、ある時、わたしに「原爆小頭症のボランティアグループのビデオ撮影をやってくれないか」と頼んでこられたんです。結果的に、この依頼が自分にとって取材や記録だけでなく支援活動にも身を投じる第一歩となりました。忘れもしない1996年のことです。
―取材や記録する立場で支援活動も行うことは難しいですか?
それまで、わたしは「本来、取材者は取材対象と一線を引くべきだ」との思いが強く、原爆小頭症を取材しながら支援を行うことに対して苦悩と葛藤を繰り返していたんですよ。ところが、秋信さんはジャーナリストとして小頭症被爆者や家族の心の傷の深さを知り、ひとりの市民として「きのこ会」の相談役を務めたり、原爆小頭症に関する著書を執筆することで支援活動を実践されていました。つまり、記録者であり、支援者であることをしっかり両立されていたんです。
自分の立ち位置に悩んでいたわたしの指針となったことは言うまでもありません。残念ながら、秋信さんは2010年にお亡くなりになられましたが、亡くなる直前にも酸素ボンベをぶら下げて「きのこ会」の定例会に出席されるなど、最後までその姿勢を貫き通されました。本当にすごい人です。尊敬する秋信さんに指名されたので2009年からはわたしが「きのこ会」の事務局長を務めています。
―事務局長を担当されている「きのこ会」について教えてください。
「きのこ会」は、1965年に発足した小頭症被爆者とその家族の会です。原爆投下後、アメリカが広島と長崎に設置したABCC(※原爆傷害調査委員会)では、1950年から開始した胎内被爆児の調査によって原爆小頭症の存在を早くから把握していながら、一般には公表していませんでした。秋信さんらは、ABCCの日本人スタッフから得た内部情報などを頼りに粘り強く調査を行い、該当者をひとりひとり探しだして6組の家族で結成する会を設立。被爆して20年もの間、同じ境遇の人たちがいることを知らず、孤立無援だった親同士で悩みを共有し、社会への働き掛けを強めたことで、創設2年後の1967年には原爆小頭症が原爆によるものと国に認定されました。
会の名称には「きのこ雲の下で生まれた小さな命ではあるが、木の葉を押しのけて成長するきのこのように元気に育ってほしい」という小頭児の親たちの願いが込められています。現在、活動の柱に掲げているのは「国家補償」、「核兵器廃絶」、「原爆小頭症の記録をまとめ、次世代に伝える」。何よりも原爆小頭症の会員たちが安心して笑顔で生活できるようサポートすることを目的にしています。
―「きのこ会」は、会員さんたちの心強い存在になっているでしょうね。
そうであれば幸いです。原爆症と認定されるまでの長い間、周囲から心ない差別や偏見にさらされて、地域社会とのつながりの希薄な生活を強いられてきた小頭症被爆者と家族の心の傷はどんなに時間がたっても癒されることはありません。
ジャーナリストとして報道する側でもあった秋信さんは、世間から隠れるように生きてきた小頭症被爆者や家族のために、報道による人権侵害を考慮して個人への直接取材を控えさせるため、「きのこ会」を取材の窓口として当事者のプライバシーを守る仕組みを構築されました。会が情報の窓口として定着すると、原爆関連の報道の際に小頭症被爆者の個人のプライバシーが尊重されるようになりますからね。
会員の抱える心の傷のケアに重点を置き、“報道から人権を守る組織”として活動することも「きのこ会」の使命であり、今日も継承しています。
―原爆投下からまもなく76年を迎えますが、小頭症被爆者の方も高齢化が進んでおられるのでは。
現時点で「きのこ会」の小頭症被爆者の会員数は15人です。「もっとも若い被爆者」と呼ばれたみなさんも今では70代半ばを過ぎ、日々の暮らしの中で「原爆小頭症の子供を残して先に死ねない」と行く末を心配されていたご両親は既に全員亡くなられています。寝たきりになって病院や高齢者施設などに入所される会員も増えてきたのですが、昨年からはコロナの影響で本人と面会ができないことなど、「きのこ会」をとりまく環境が著しく変化してきました。
高齢化によって社会が抱える問題については、身体障がい者や知的障がい者のみならず、健常者であっても身体機能の衰えや認知が進行していくケースはままあるので、特に大きな違いはないでしょう。ただ、小頭症被爆者の人たちは、原爆さえ投下されなかったら寝たきりにならず、家族とのどかに畑を耕すといった幸せな老後を送れていたかもしれません。この世に生を受ける前に母親の胎内で浴びた原爆の放射能によって人生のすべてがカットアウトされ、なすすべもなく今に至ったことにやりきれなさを感じてしまいます。
―原爆小頭症と身近に接してこられたからの思いですね。「きのこ会」の会員さんたちとの深い絆がうかがえます。
「きのこ会」は毎月一度、会員の近況や活動方針を話し合う定例会を開いています。会員の高齢化やコロナ禍など、刻々と変化する現実の中で「記録者と支援者を両立できる」と信じて活動を続けてはいるものの、いまだに悩み、葛藤することは多いですね。失敗することも少なくありません。例えば、こんな出来事も…。
わたしは、以前から「きのこ会」で交流のある家族の方に許可をいただいて、プライベートで記録用のビデオ撮影を行っています。ところが、ある時、その映像を自社の報道番組で放送してしまったのです。番組を観たご家族の方から「記録として撮影することは許可したけれど、テレビで放送して良いとは言っていない。やはりマスコミの人というのは心を一度許すと床の間まで土足であがってくるんですね」と強くお叱りを受けました。日頃の活動に慢心して、いつの間にか自分の心の中に馴れ合いの気持ちが生まれていたのかもしれません。わたしを信頼して任せてくださったご家族の好意を裏切る結果になり、この時ばかりは土下座して謝罪しました。自分の気の緩みが悔やまれる苦い経験です。
―なるほど、長い活動の間にはいろんなことが起きますね。最後に、これからご自身が取り組まれることについて教えてください。
原爆小頭症に携わってきて、よく耳にしたのが「目に見えないことは心から消える」という言葉です。現在は15人おられる小頭症被爆者もいずれはいなくなる日がやってきます。誰かが、当事者や家族の“生きた証”について記録しておかないと、その存在が消滅してしまうわけです。
わたしはこれまで原爆小頭症を題材とする番組を何本も制作してきましたが、放送するたびに視聴者から返って来るのは「原爆小頭症のことを初めて知りました」という反響です。小頭症被爆者がご存命の今でさえ、これが現実ですから、今後、原爆小頭症を含めた全ての被爆者が亡くなっていかれる中で、記録した事実を世に伝え、風化しないようにしなくてはいけません。記録づくりにあたり、まずは生き証人であるご存命の方や家族の映像を残しながら、手記や昔のメモなどを地道に集めることに専念したいですね。
課題としているのは、先輩たちがいままでやり尽くした作業に改めて挑戦していくこと。新しい記録を掘り起こせれば、メッセージを伝えていく上で、さらに精度が高まるはずです。特に「ヒロシマについて学びたい」と思っている若い世代には、彼らの視点で理解を深めて欲しいと思います。収集した記録や証言を保存して継承する研究の必要性を感じて、昨年からは母校である広島修道大学修士課程に入学しました。自分のライフワークとして、今だからできることに拍車をかけていきます。
※記事中使用した写真の一部は、中国放送が製作した報道特別番組「おーい、聴こえますか?被爆73年・ヒロシマから」の広報写真をお借りしました。
●プロフィール
●平尾直政(ひらお なおまさ)
ドキュメンタリスト
1963年、東広島市生まれ。広島修道大学卒。
1986年、中国放送入社。平和問題や教育などをテーマに数多くのドキュメンタリー番組を制作する一方、ライフワークとして原爆小頭症の取材を続けてきた。2009年より個人の立場で原爆小頭症被爆者と家族の会「きのこ会」の事務局長を務めている。
原爆小頭症について、取材や報道を行う「記録者」とサポート活動を行う「支援者」の両方で向き合うことを信条とするため、ジャーナリストではなく“ドキュメンタリスト”の肩書きを名乗る。
●きのこ会(原爆小頭症の被爆者と家族の会)Facebookページ
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