【広島人の履歴書】
File.9 前田政登己さん 株式会社マエダハウジング 代表取締役 《前編》

【広島人の履歴書 】


広島と縁のある各界のオピニオンリーダー自らが語る今日までの足跡。知られざるエピソード満載の履歴書(プロフィール)には、現在を生きるヒントが隠されています。

マツダから転職しリフォーム業界へ
失望や裏切りを乗り越えて起業決意!

“リフォーム”の意味さえ知らなかったわたしが転職を機に、この業界で起業することを決め、27歳の時に興した「株式会社マエダハウジング」が今年(2023年)1月、創業30周年を迎えました。創業以来、30,000件以上の住まいづくりに携わってきた結果、9年連続「広島県総合リフォーム売上№1」の評価もいただき、感慨もひとしおです。もちろん、今日に至るまで、道のりは決して平坦ではありませんでしたが、数々の困難や試練を乗り越えてきたからこそ、今があるのだと思います。

「広島を、いい笑顔に」との思いを胸に、地域に密着した「住まいと暮らしのワンストップサービス業」を掲げる企業として何をなすべきか?30周年の節目に、これまでの自分の足跡を振り返りながら、これからの夢や目標をお伝えしましょう。

姫路で生まれ、岡山で育つ。

昭和40年7月21日、わたしは兵庫県姫路市で生まれました。家族構成は、土木建設会社に勤務する父と水産加工会社にパート勤めする母、そして3つ違いの弟です。父は寡黙な人でしたが、酒を飲むと仕事の愚痴を喋り始め、だんだん激昂して手をあげたり、食卓をひっくり返してしまう、まるで漫画“巨人の星”の星一徹のようなタイプ、母はいつも前向きで嫌なことも一晩寝たら翌朝にはケロリと忘れているような明るい性格でした。現在、身長が181㎝あるわたしは、生まれた時も3,800gくらいの大型サイズで、親が目を離してもずっと良い子にしている、手のかからない赤ちゃんだったそうです。そして幼少期は太ってはいるものの、小児ぜんそくのため、身体が病弱でいつもボ~ッとしていたとか(今でも家ではボ~ッとしていますが…)。

小児ぜんそくになったのは、工場の煙突から吐き出される赤い煙で昼間でも薄暗い姫路の工業地帯に自宅があったことに加え、両親揃ってヘビースモーカーだったという煙にまみれた生活環境のせいでしょうね。幼い頃の原体験もあってか、わたしは大人になっても家でお酒を飲んで愚痴をこぼしたり、暴れたりしないように自宅に帰ったら仕事の話を一切しないし、タバコはこれまで1本も吸ったことがありません。まさに“三つ子の魂百まで”です。

地元の幼稚園に通いはじめても内気で大人しい子でしたが、その頃の記憶で鮮烈に覚えている出来事がひとつあります。お遊戯会で「白雪姫」をやることになり、なぜかわたしが王子様の役に抜擢されたんです。ところが、練習の時に毒リンゴを食べた白雪姫を目覚めさせる場面の台詞を何度やっても「シンデレラ姫!シンデレラ姫!」と呼び間違えてしまう。本番ではどうにか失敗せずにすみましたが、とても恥ずかしかったので忘れられないのでしょう。これまでの人生で主役になれたのは、あれが最初で最後、なんともほろ苦い思い出です。

小学校も地元の姫路市立英賀保小学校に進みましたが、この頃は1学年が7クラスあり、全校生徒が1000人以上いるマンモス校でした。小児ぜんそくで、体育の水泳の授業も学校のプールに入いれず、見学するくらい病弱だったことから、放課後も外で元気に遊びまわることもなく、家で当時流行ったお菓子「仮面ライダースナック」のおまけのカードやアルバム集めに熱中するような子供でしたね。そんなわたしに小学4年生の時、大きな転機が訪れました。父の実家がある岡山県津山市への引越しです。

引越し先となった津山は自然豊かなのどかな田舎町で、工場の赤い煙が立ち上る 姫路が“赤い町”ならば、山や畑の緑がまぶしい“緑の街”でした。転校した津山市立清泉小学校も、マンモス校だった英賀保小学校とは真逆で1年~6年生まで各学年1クラスしかありません。こうして空気のきれいな土地での新生活が始まると、嬉しいことにわたしの小児ぜんそくもいつの間にか、すっかり治ってしまいました。

見違えるほど元気になったわたしは、インドアからアウトドアへ気持ちが向くようになり、父の勧めもあってソフトボールを始めることに。チームに入ると、守備はセンター、打順は5番を任せられるようになって、今では考えられませんが、「水を飲んではいけない」といった猛練習にも慣れていくと、6年生の時に津山市の大会で優勝することができたんです。12歳で、チームのみんなと心をひとつにして優勝を勝ち取る素晴らしい経験ができたのは、現在の会社経営にも生きていると思います。のちに子供たちの大会を開きたいと思ったのは、この体験からでした。

津山市立津山東中学校に進学すると、ソフトボール部がなかったため、既に170㎝を越えていた身長を買われて勧誘されたバレーボール部に入部。津山に引っ越して来て以来、姫路ではプールにも入れなかったひ弱な身体が嘘のように丈夫になり、毎日バレーボールに明け暮れたものです。そういえば、この中学校の一級上の先輩に人気ロックバンド「B,Z」のボーカリスト・稲葉浩志さんがいたんですよ。同じ学校に通っていながら、お話したこともありませんが⁉。

一方、学業の方は、クラスの中で中の上か、上の下といった感じの成績でした。高校受験を迎えるにあたり、志望校に選んだのは県内でも難関校として知られる「津山高専(津山工業高等専門学校)」です。ハードルの高い学校を目指したのには理由がありました。家が決して裕福ではなかったため、普通科高校から大学に進学して親に経済的な負担をかけたくなく、“就職率100%”が謳い文句の高専にどうしても進学したかったんです。 とにかく、がむしゃらに必死で勉強しました。いま振り返ってみてもあんなに勉強したのは高校受験の時だけだと言い切れます。

津山高専卒業後、マツダへ入社。

猛勉強の甲斐あって、なんとか津山高専の機械科に進むことができました。ちなみに津山高専は、数学、国語、英語などの一般科目と、所属する学科の専門科目を効率的に組み合わせた5年間一貫教育で、短大の工学部と同程度の専門知識、技術を学ぶ国立高等専門学校です。第一志望に入学出来てホッとしたのもつかの間、今度は非常にレベルの高い同級生たちと、これまたレベルの高い授業について行かなくてはなりません。その厳しさと言えば、同級生が2クラスで80人いましたが、単位が取れず、留年して進級できない生徒が続出するほどです。わたし自身、何度も挫折しそうになりながらも、毎日授業に出席して勉強を怠らないように心掛けたところ、無事に5年間で卒業に漕ぎ着けることができました。その時の同級生とは、今も年末に同窓会を行っています(※残念ながらコロナ禍では中止)。卒業して30年以上経っても、みんな元気に会えるのが嬉しいです。

もとより就職を念頭に置いて高専に進学したわけですが、さて卒業後はどこへ就職するべきか?就職先を選ぶにあたり、機械科で学んだことを活かすにしても精密機械などの分野はあまりピンと来ず、中学時代に叔父が経営する板金会社でアルバイトした経験から、なんとなく身近に感じたのが自動車業界です。とはいえ、自動車メーカーと言ってもトヨタや日産の大手は自分の成績では受かりそうにもないし、何より関東などの岡山から遠く離れた場所へ勤務することに抵抗がありました。そこで条件に見合ったのが岡山の隣にある広島のマツダでした。マツダと言えば、中国地方を代表する企業ではあるし、高専から自動車メーカーに就職できる人数は限られていたので、採用が決まると、両親や親戚、わたし自身も大喜びしたものです。

入社後、2年間はいろいろな部署での研修が続きました。工場や、開発部門の研究所など、様々な現場を経験しましたが、中でも印象深く思い起こされるのが広島県北部、三次市にある「テストコース」での研修です。テストコースは開発中の車を試験走行させる施設で、各メーカーの新車開発の動向を探る自動車業界誌やマスコミのスクープ合戦に巻き込まれないように周囲は高い植木やフェンスに覆われ、試作車のボディーには黒いカバーが被されていました。

そこでの仕事は、長時間走行の耐久性などを調べるため、試作車を24時間走らせるという過酷な業務でしたが、開発途上の車なので走行中にボンネットが火を噴いたり、突然スピンすることも。加えて、場所が山の中ですから、夜になるとタヌキや狐がコースに飛び出して来るので気が抜けません。動物を避けようとしてハンドルを切るとガードレールに激突してドライバーの生死に関わるため、テストドライバーには「決して動物を避けずに、そのまま走行すべし!」と厳しく命じられる怖ろしい現場でした。めったにできない経験なので、いまだに忘れられませんね。ちなみに、わたしたちは運転できませんので同乗しているだけでしたが…。

長い研修期間を終え、“海外サービス部”への配属が決まりました。ところが、この頃に会社の先輩や同期と話をすると、耳に入って来るのは会社の愚痴や不平不満、他の自動車メーカーを羨ましがる話ばかり。社員が2万人以上いる会社では、それも仕方ないのだけれど、悶々とする日が続きました。このまま務めていても自分の将来が見えない気がしてきたんです。結局、海外赴任する前に退職することに。今考えてみると、自分の思いが先走り、次のあてもなく、計画性もなしに会社を辞めたことは、若気の至りだったと思います。この退職を反省し、新卒の会社説明会では「マツダはいい会社です。自分自身がわかっていなかっただけです」と伝えています。当時の自分にもしアドバイスできるなら「目の前のことを一所懸命頑張れ。そこから見えてくるものがあるから」と言いたいですね。

リフォーム業界へ、波乱の幕開け。

マツダを辞めた後も広島で暮らしていたわたしは、生活費を稼ぐため、知り合いの土木工事会社で交通整理のアルバイトを始めました。毎日、工事現場に立って“旗振り”を続けるうち、「このままではいけない。どこかの会社に就職しなければ」という気持ちが強まり、求人誌をめくっていると、目に留まったのがある企業の求人広告です。

その会社は、有名タレントをテレビCMに起用して派手な宣伝を行っていた全国区の企業でした。イメージも良かったし、給与などの待遇面も充実していたので早速、面接に出かけ、求人の仕事内容をたずねてみると、感じの良い面接官から「リフォームの営業です」と伝えられました。

正直に言えば、リフォームの意味さえ知らなかったわたしですが、「古い家をキレイにしてお客さまにさらに気持ちよく快適に生活していただく仕事です。明かりがたっぷり入るサンルームをつけたり、外壁を塗り替えたり、キッチンを取り替えたり…」といった説明を受けるうちに、夢のある仕事のように思えて、やってみたくなったんです。ほどなく入社が決まり、念願のサラリーマンに復帰できました。

さて、面接時に出張が多い会社だとは、聞いていましたが、入社初日に上司から告げられたのは、いきなり鳥取への出張です。「入社した日に一人で出張に行かせるなんて、この会社、大丈夫かな?」と不安を抱きながらも、現地に赴き、待ち合わせのホテルで先輩社員と合流しました。挨拶もそこそこに分厚い防寒服と長靴を渡され、その時初めて一軒ずつドアのチャイムを推して、飛び込み営業する仕事だと教えられました。

リフォームと言っても基本的に外壁営業でしたが、入社初日から「とんでもない会社に入ってしまった」と後悔する羽目に。その後、先輩の鞄持ちや運転手をしながら、中国地方での営業を続けていると、2カ月目までは当初の条件どおり20数万円出ていた給料がゼロになっており、確認したところ、完全歩合制なので会社が立て替えたホテル代の経費が差し引かれるシステムとのこと。

これでは家賃も払えず、生活できない旨を経理担当者に訴えると、すぐにお金を貸してくれ、入社3か月目にして会社に23万円の借金を背負うことになりました。転職早々、出張は続くわ、借金までこさえるわ、このまま結果を出さずに辞めるのも悔しいので必死で営業してみた結果、3件の受注が取れたんです。これを機に、3か月連続で売上目標を達成できて給料も倍増し、次の月からはなんと係長に昇進。ちょうど、その頃、最初に受注したお客様の現場工事が始まりました。

初めて受注した工事でもあり、アフターフォローも兼ねて、お客さまに会いに現場に行こうとしたところ、上司から、なるべく現場に足を運ばないように釘を刺されました。理由を聞くと「営業マンが顔を出してクレームが出ると困るから」との返答があり、わたしは唖然としましたね。なるほど、上司に内緒で現場に行こうとしても、今月は鳥取県、翌月は山口県、翌々月は愛媛県といった具合に、毎月担当エリアを変えられるので現場に行けない仕組みになっているんです。業界経験の浅い自分を信じて、仕事を下さったお客さまのフォローをできないことが、次第に許せなくなったわたしは、会社に辞表を出してしまいました。

起業を決意した辛い出来事。

実際に従事してみてリフォームの仕事が面白くなってきたことから、次もリフォームの会社に転職したのですが、最初の会社よりはマシなところもあったけれど、結局はお客さまからのクレームが多い杜撰な業者でした。トラブルの後始末などに追われて疲弊する中で、ただひとり、尊敬出来て心を許せる上司から「前田君、この会社に染まってはいけない。僕は独立して会社を興すから一緒にやってくれないか?」と誘われたんです。大学卒業後、証券会社への勤務を経て入社した経歴を持つ、この上司の誘いをわたしが二つ返事で引き受けたことは言うまでもありません。

こうして元上司が社長で、わたしが営業を担当する2人だけの新会社がスタートしました。信頼できる人と自分がやりたかったリフォームの仕事が出来る、夢と希望に燃えた日々の始まりです。もっと本格的に工事のことを学びたかったわたしは、以前の職場では経験できなかった作業着を着て現場を回ることに。最初は職人さんに垂木を持ってくるように指示されても“並垂木”と“平垂木”の区別もわかりません。職人さんを捕まえては、しつこく教えを乞うていると、徐々に現場監督兼営業としての知識を身に付けることができました。

心機一転、2人で頑張った甲斐もあり、受注も増えて売り上げも順調に伸びて行ったのですが…。夏が過ぎ、秋が来ても社長は「資金繰りが厳しい」を繰り返し、時にはわたしの給料の支払いが遅れたり、当人が2~3日会社に出て来ず、音信不通になることも。創業して1年ほど過ぎた平成5年1月4日、新年を迎えた“仕事始め”の日のことです。出社すると事務所のドアが閉まったままで、人の気配がありません。ガラス越しに中を覗くと、やけに片付いて荷物も見当たらない。大家さんに事情を話してカギを開けてもらいましたが、金目のものは残っておらず、もぬけの殻でした。なんと、社長が夜逃げしていたんです。

あとで聞いた話によると、社長は証券会社時代に作った大きな借金を抱えており、会社で上がった利益はその返済に充てていた様子。いくら頑張っても給料に回らないわけです。尊敬し、信頼してついて来た社長に裏切られたショックに打ちひしがれる間もなく、経営者が失踪した情報は、会社と関わりのあった人たちに瞬く間に広まり、新年早々、事務所の前に血相を変えた職人さんが続々と駆け付けてきました。「こりゃ、やられてしもうた!」「前田君、ホントは居場所を知っているのに隠しとるんじゃないのか?」「前田!お前が代わりに払えや!」…職人さんたちに取り囲まれ、未払いの工事代金について怒号が飛び交う中、代わりに責任をとるどころか、自分の給料も年末から支払われてないことなどを説明すると、27歳の若造であるわたしに詰めよっても埒が明かないので、今後について、みなさんの話し合いが始まったのです。

職人さんたちの話を聞きながら、ひとつの結論に辿り着きました。それは、わたしが独立し、職人さんたちに仕事を回すこと。そうすればみんなも納得してくれると思い、「みなさん、わたしが独立して、何とかして仕事を取って来るので一緒にやってくれませんか!」と呼びかけてみたところ…。人の輪が一瞬、静まり返った後、聞こえてきたのは「そんなことは、いいから金を払え!」という、わたしが思い描いた甘い期待を打ち砕く、非情なひと言でした。

よく考えてみると社長が夜逃げした会社の27歳の若い社員が独立宣言しても、誰もついていくはずがありません。「1人で始めるしかないか…」としょげていると、1人の同世代の塗装職人さんが「前田さん、一緒にやろう!」と声をかけてくれました。嬉しくてその職人さんに何度も頭を下げるわたし。マエダハウジングが産声をあげた瞬間でした。《後編に続く》

《前田政登己(まえだ まさとみ)PROFILE》

昭和40年 兵庫県姫路市生まれ。昭和61年 国立津山工業高等専門学校卒業。昭和61年 株式会社 マツダ入社。昭和64年 リフォーム業界へ入る。平成 5年 マエダハウジング個人創業。平成 7年 有限会社マエダハウジング設立。24年間で18,000件以上のリフォーム・新築・不動産などの夢の住まいづくりに携わる。2006年より「広島の安心・安全リフォーム」「広島リノスタイル」「中古を買ってリノベーション!」など40冊以上の雑誌・書籍発行に関わる。事業展開する「中古購入+リフォーム」のワンストップサービス、「空き家再活用」サービスは、経済産業大臣表彰「先進的なリフォーム事業者表彰」「中国地域ニュービジネス大賞 優秀賞」「ニッポン新事業創出大賞 アントレプレナー部門特別賞」などを受賞している。

【会社概要】

会社名 株式会社マエダハウジング
代表者 代表取締役 前田 政登己
本 社 730-0013 広島市中区八丁堀10-14八丁堀マエダビル3F 
電話番号 082-511-7552
事業内容 住宅リフォーム、リノベーション・新築の設計・施工・管理
創業 平成5年1月 設立 平成7年4月
資本金 1億円※マエダハウジング単独
従業員数 78名(2023(令和5)年1月時点)※マエダハウジング単独
売上高  マエダハウジング単独 21億9,900万円(2022(令和4)年12月期)
     グループ会社連結 38億1,000万円(2022(令和4)年12月期)
事業所  本社/八丁堀店 府中店 五日市店 安佐南店 東広島店 宇品店
グループ会社
        株式会社マエダハウジングプラス 
        株式会社マエダハウジング不動産
        株式会社ザメディアジョン
        株式会社ザメディアジョンHR
        株式会社エコミル

【ホームページ】 

〇マエダハウジング https://www.maedahousing.co.jp/ 
〇マエダハウジングGRコーポレートサイト https://maedahousing-gr.jp/
〇マエダハウジング不動産 https://www.hiroshima-estate.com/
〇マエダハウジングプラス https://www.maedahousing.co.jp/maedahousing_plus/
〇ザメディアジョン https://mediasion.co.jp/hr/
〇ウェブマガジンくらうど https://www.kuraudo.jp/

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