【広島人の履歴書】
File.7 佐々木大輔さん 株式会社 SSK 代表取締役 《前編》

【広島人の履歴書 】


広島と縁のある各界のオピニオンリーダー自らが語る今日までの足跡。知られざるエピソード満載の履歴書(プロフィール)には、現在を生きるヒントが隠されています。

幼くして「人生50年」の儚さ痛感。
働くことに活路を求めた学生時代!

人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。人の世の50年間は天界の時間と比べれば、ほんの夢や幻のように儚いものだ…織田信長が好んだとされる幸若舞「敦盛」の一節さながらに、早逝する親戚が多かったため、幼い頃から「人生は短い。やれることをできるうちにやっておかないと後悔してしまう」という気持ちが人一倍強かったようです。31歳で株式会社SSKを設立し、現在グループ会社を加えて、いくつかの事業を展開していますが、これまで生き急いで来たせいもあり、いつの頃からか「35歳で定年し、残りの人生を自由に生きてみたい」と考えるようになりました。そして昨年10月、35歳を迎えたことから今年2023年はいよいよ実現しなければなりません。世間的に見れば、まだまだ若輩者ではありますが、自分の中で節目と定めた年の始まりに、これまでの足跡とこれからの夢を記しておこうと思います。

わたしは1987年10月14日、江田島市で生まれました。家族構成は安芸太田町加計出身の父、江田島市出身の母、そして6歳違いの姉がひとり。家電量販店のサラリーマンだった父の仕事の都合で生後まもなく茨木県へ引越し、小学校1年生の時に生まれ故郷である広島に帰ってきました。幼少時は、いわゆる“喘息持ち”で身体が弱かったことから、小学校時代に体育の授業でプールに一度も入った記憶がありません。勉強も好きではないけれど、“やればできる子”といった感じでした。あまり裕福な家庭ではなかったので塾や習い事なんて通ったことがないんですよ。

そんな小学生の頃からでした。身近な人の葬儀に立ち会うことが増えたのは…。特に母方は早逝の家系なのか? 60歳で亡くなった祖父はさておき、30代や40代で亡くなる親族ばかりで、毎年のように葬式に連れて行かれました。小学生であんなに身内の遺体と対面したのはわたしくらいじゃないでしょうか。幼くして早死にする人を沢山目にしたせいか「人は50歳まで生きらないのかも」という思いを抱くようになった次第です。現在に至る自分の歩みを振り返ってみると、これらの体験を通じて子供ながら人の寿命の短さに焦りや虚しさを感じ、周りとは少し違う生き方を選んだのかもしれませんね。ちなみに母もわたしが24歳の時に亡くなりました。

中学生になると「みんなと同じように学校に通うだけで、のんびり生きていたらボクもすぐに死んでしまうかもしれない」の気持ちは強まる一方でした。とにかく何かをやってみようと中学を卒業した3月からアルバイトをスタートしたんです。アルバイト先は、なんと母の知人が経営する安佐南区の居酒屋さん。いま考えると、よく働かせてもらえたと思いますが、14歳にして大学生のアルバイトに混ざって居酒屋の厨房で調理や洗い物を担当しておりました。結局、その店でのバイトは大学一年まで続け、高校の授業料と携帯代は自分の給料で賄っていたんですよ。

高校は公立の商業高校へ進学したのですが、高校2年の末に「ここでは、もう学ぶことはない。自分がやりたいことをみつけたい」との思いが募り、自主退校しました。それからは通信制の広島県立西高等学校(※令和3年3月に廃校)に編入し、人よりも出席ペースを加速して勉強したところ、1年間で必須単位を修得できたので、「大卒の資格もとっておこうか」と大学を受験することに。進学したのは、居酒屋で一緒に働く学生の多くが通っていて楽しそうな感じがした広島経済大学です。

そういえば通信高校時代からは、アルバイトの数が増えていましたね。夜は流川のバーのカウンター業務、昼間は前述の居酒屋が営業を行ううどん屋の調理、そして朝は学習塾のビラ配りといった具合です。まだ10代で、お酒を飲めない自分がバーに来店されたホステスさんなどを接客していたわけですから、ある意味では、とんでもない社会勉強を積んでいたのかも(笑)。もちろん、大学に入ってもアルバイト三昧の生活は変わりません。卒業するまで続けたカラオケ屋では、注文されたお酒を作り、レジを打ち、カラオケ機器を設定したり、施設の掃除に至るまで全てをこなす毎日でした。週のうち6日は夜8時から朝4時までカラオケ屋に勤務し、学校の授業中に居眠りするような忙しい学生生活でしたが、要領が良かったせいか⁉3年間で卒業に必要なフル単位を取得していたし、合間をみつけて遊びもエンジョイしたものです。

何しろ、ほぼ毎日のアルバイトのおかげで普通の学生より、お金を稼いでいましたからね。とりわけ、お金を費やしたのはバイクや車です。16歳でバイクの免許を、18歳で車の免許を取っていたので、バイクはビッグスクーター、車は先輩のお古のレジェンドを皮切りに数台乗り継ぎました。一時はビッグスクーターと中古で購入したセルシオと軽自動車の3台所有していたこともあり、駐車場を2台分借りて、保険代だけで毎月4万円払っていたことも。学生ながら月に18万円は稼いでいたので、大学の授業料の支払いはもちろん、趣味にそれだけ使っても貯金までできたくらいです。

ところで、人からすれば「これだけ自由気ままに生活していて親はよく何にも云わなかったね」と疑問を持たれるかもしれません。我が家の場合、特に父は何ごとにおいてもわたしの意志を尊重してくれたんですよ。例えば、高校を辞めると決めた時も「自分の人生だから、好きなようにしなさい」と全く反対することはなかったし、いつも息子の自主性を優先する珍しいタイプでした。世間的には放任主義の父親と思われるかもしれませんが、わたしからすれば、父が「自分の生き方に責任を持つこと」を教えてくれていた気がします。「自分で何かをやってみたい」と漠然と思いつつ、本当にやりたいことを模索しながら送ってきた大学生活も就活シーズンを迎え、卒業後の自分の進路を決める時がやってきました。

ひとまず、どこかに就職して経験を積む必要を感じて企業訪問してみることに。志望先を3社ほどに絞って、最終的に選んだのが、当時、急成長していた全国展開するパチンコチェーンでした。大学に求人が来ていたとはいえ、なぜ就職先にパチンコ店を選んだのか?理由はただひとつ、初任給が破格だったんです。その会社が全国に220店舗くらい展開していた最盛期の頃の幹部候補生募集なので、大卒初任給の平均が21万円だった時代に基本給26万7000円でしたからね。入社後は、安佐北区可部のパチンコホールに配属され、ホール廻りを皮切りに、顧客会員のメール対応、カウンターでの景品管理、警察ほか遊技業の管轄先とのやり取りといった事務作業など、施設の運営に伴う業務全般に従事しました。

風営法に基づき、昼と夜のシフト制ではありましたが、夜中の3時まで仕事するのもしばしば。1日で3,000万円を現金回収するパチンコ店の現場はすごいですよ。仕事はハードでしたが、自分なりに頑張っていたところ、1年目で西日本地区でも最速で管理職のポストに付け、給料も大幅に上がりました。「自分で何かする時のために」の思いから無駄使いはしなかったので、2年間で400万円くらい貯めたかも…。

さて、若くて遊びたい盛りなのでお金を持つと、いろんな誘惑がありそうにも思われるかもしれませんが、そんな気も起らなかったですね。特に女性に関しては、わたしには中学3年の頃から付き合っている彼女がいましたから。寝る間を惜しんで働いたり、何かに追われるかのように生き急ぐ変わり者を中学時代からずっとそばで見て応援してくれる相手を差し置いて、他の女性に目をむけるわけにはいきません(笑)。実は、それがのちに結婚するいまの妻なんですよ。

こうしてパチンコ店に勤務して丸2年が過ぎ、24歳を迎えた頃、「クルマを扱う仕事に就いてみたい」という目標が浮かんできたことから、所有していたマイカーの保険でご縁のあった地元企業に転職しました。この会社は自動車の販売・修理・買取を主体に、美術品の販売、損害保険・生命保険代理業、不動産業などを手広く行う会社で、前職よりも給料はずいぶん下がりましたが、「将来の独立に向けて何事も勉強のため」と割り切り、入社を決めたんです。

通常の自動車販売店とは少し業態の違うビンテージカーなどの旧車も扱う会社なので、仕入れから販売に至るまで様々な商売のやり方を学びました。初めて経験することも多く、最初は見るもの聞くもの驚くことばかり。例えば車を引き取りに行くよう命じられて向かうと左ハンドルのミッションの往年の名車で「どうやって運転するんだろう?」「どこでエンジンをかけるんだろう?」と戸惑ったり、世界に3台しかない貴重な旧車の高額な修理を海外経由で行う手続きの現場に立ち会ったり…。扱う商品の関係でハイクラスのお客さんを接客する機会も増え、ビジネスの手法だけでなく、自分たちとは違う世界にいる人を知る上でも勉強になりましたね。

一方、この会社では、事業の一環として営業していたカフェの経営も担当していました。24歳から28歳までの4年間は、朝の8時に自動車部門に出勤し、昼の3時からカフェの仕込みに入って、そのまま店に立ち、営業終了後の片付けを済ませて深夜1時に帰宅するという生活の繰り返しです。ゆっくり休む間もない過酷な労働環境で4年に渡って仕事を続けたせいか?ある日、とうとう身体が悲鳴を上げてしまいました。まず扁桃腺が腫れて、しばらくすると顔の半分がピクピクし始めたので病院を訪ねたところ、診察結果は「顔面麻痺」とのこと。精密検査して脳には異常がなかったのですが、働き過ぎによる疲れやストレスが原因で耳の神経にばい菌が入って、顔の神経に影響を及ぼしたようです。その炎症を抑えるのに出された薬の量には驚きましたね。一回分で25錠、薬でお腹が太るくらいの療養生活を余儀なくされたんです。高齢者だと神経が回復するのが遅いため完治は難しいみたいでしたが、わたしは年齢も若かったので再発の可能性はあるけれど、なんとか完治することができました。

その後、体調は回復したものの、流石にそれまでの仕事を続けるのは難しく、先輩から誘いのあった中区大手町の大手保険会社に転職したんです。久々にきちんとスーツを着て生命保険の営業に回る日々がスタートしました。決して成績が良かったわけではないけれど、営業活動を通じて人脈を広げることができるのが何より魅力でした。そして30歳を迎える年の6月には、中学3年の時から長年付き合ってきた彼女と結婚、プライベートでも新生活の始まりです。保険会社では、これまでの仕事とはまた違った学びも多く、そのまま務めていくことも考えなくはなかったのですが、家庭を持ったのを機に、また自分の中で生き急ぐ人生の時計の針が動き出しました。3年間お世話になった会社から離れ、10代の頃からずっと目標に掲げてきた「独立」に踏み出すことを決意した次第です。以下、《後編》に続く。

《佐々木大輔(ささき だいすけ)PROFILE》

1987年10月14日生まれ。広島県広島市出身。2009年広島経済大学卒業後、大手パチンコチェーンに就職。その後、自動車販売会社、保険会社などへの勤務を経て独立、2019年に株式会社SSKを設立。不動産・自動車・通信・保険・運輸・飲食など6事業を手掛けている。グループ会社の株式会社liberteおよび株式会社K`S Createの代表取締役も兼任。趣味は釣り。座右の銘は「人生一度きり」。

【会社概要】

会社名株式会社SSK
代表者代表取締役 佐々木 大輔
本社広島県広島市安佐北区落合南5丁目1314-7
TEL:082-847-2830 FAX:082-847-2870
設立2019年2月4日
資本金3,000,000円
従業員数17人 (2021年7月1日時点)
主な事業内容不動産売買・賃貸
通信・インターネット附随サービス
生命保険・損害保険代理サービス
運輸サービス
飲食サービス

■株式会社SSK ホームページ
https://ssk-group.co.jp/

■佐々木 大輔 フェイスブック
https://m.facebook.com/daisuke.sasaki.3990

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