【広島人の履歴書】
File.2 山田利英子さん 株式会社 利カンパニー 代表取締役 《後編》

【広島人の履歴書 】


広島と縁のある各界のオピニオンリーダー自らが語る今日までの足跡。知られざるエピソード満載の履歴書(プロフィール)には、現在を生きるヒントが隠されています。

NPO法人代表を経て、三次市初の女性副市長へ
重症心身障害児の娘の存在が礎(いしずえ)

重症心身障害児となった娘をかわいそうだと思われるよりも、普通の健常者より幸せに見えるようにしたい―ポジティブに生きることを決めたわたしは、廿日市の養護学校に娘が入学して以来、地域の皆さんと積極的に交流するようになりました。阿品台の自宅は、長男の小学校の友だちが遊びにきたり、娘の養護学校の先生やお母さんたちが料理教室を開いてみたり、いつしか人が集う場になっていましたね。そんな最中、政府が養護学校を含め、小学校を週休二日制にすることを発表したんです。障害児を持つお母さんたちとすれば、子供を学校に預けて安心して働きに出ることや、家事の時間にあてていた土曜日が休校になるのは一大事でした。

当時、廿日市の養護学校には150人余りの生徒が通っていましたが、週休二日制の導入にあたって、多くの保護者から「土曜日にも療育して欲しい」との声が上がりました。そこで、お母さんたち有志と最初に立ち上げたのが「虹の会」というお遊びや音楽療法を行う会です。ところが、しばらく活動していくうちに自分で動くことのできない重度心身障害児と、身体は動く知的障害児では学習速度も違うので調整が難しいという課題が出てきました。障害によって組織を分けることになり、知的障害児部門は仲間に任せて、わたしは娘も含まれる重度心身障害児の会「TOM」を平成10年に立ち上げました。名称の由来はマーク・トウェインの小説の主人公トム・ソーヤーです。ハックルベリーと一緒にいたずらばかりしても地域の人に可愛がられるトムのキャラクターが、地域に障害児への理解を願う会の活動にぴったりでしたから。

当初は、任意団体として発足しましたが、会の活動を拡充させるためには対外的な信用を高める法人格が必要と考え、平成15年にNPO法人の認可を取得しました。代表理事に就任したわたしは、保育園での教諭経験を活かして現場に立つほか、呉の有力企業の福祉部門の方にフォローアップをお願いしたり、当時、広島大学健康福祉学科の助教授を務めておられた河村光俊さん(※現在は広島国際大学教授)に訓練の担当を依頼したり、体制作りに走り回ったものです。まだ広島に重度心身障害児の療育施設がない頃だったので理学療法の権威である河村先生のカリキュラムが評判となって、阿品台公民会を会場に3家族でスタートした訓練には、山口県岩国市や呉市焼山など遠方からの参加者も増え、次第に会の認知度が高まっていきました。

こうして30代から40代にかけては重症心身障害児を地域で支え合う活動や、看護に必要な介護士・ボランティアの育成に励む日々が続きます。当時、廿日市市長を務めておられた山下三郎さんにもずいぶんお世話になりましたね。阿品台の我が家の隣に山下市長の親戚があった関係でお会いする機会も多く、TOMの活動をお話すると、「やりたいことがあるなら相談に乗るよ」といろいろ助言してくださるほか、何かあるたびに行政とのパイプを繋いでいただいたんです。のちに市政に関わることになったわたしが最初に政治を教わった先生と言えるでしょう。TOMの活動が浸透していくのに伴い、わたしも社会福祉法人三篠会の酒井慈玄理事長と協力して五日市の「重症心身障害児施設」の開設に取り組むなど、地域の福祉医療に携わる機会が増えてきました。そんな矢先、広島市の医療関係者から聞かされたのが、障害児施設の整備が進む広島市西部に比べ、呉地区に施設がなくて困っているという話です。

この流れで、ご縁ができたのが、平成13年、呉市の市長選に初めて立候補した小村和年前呉市長でした。小村さんにTOMの活動をお伝えしたのを機に選挙の応援に尽力したのですが、残念ながらこの選挙では現職に敗れてしまいました。雪辱を果たすべく、4年後、平成17年の市長選に立候補された際は、施設のない呉地区の窮状や、呉出身で土地勘のあるわたしが「呉市宮原13丁目の旧海軍官舎跡の5,000坪の国有地が施設建設に活用できると思います」と、建設候補地の具体案を提言して“呉市に重症心身障害児の療育施設を建設すること”を市長選のマニュフェストにあげていただくことになりました。障害児を持つお母さんたちも立ち上がり、「今度こそ小村市長を誕生させよう!」と応援運動を繰り広げたところ、前回敗れた現職を制して小村さんが呉市長に初当選。以降3期12年間、市長を務められた間、わたしたちの活動に多大なお力添えをいただきました。

小村さんとはいろんな思い出がありますが、大学生だった息子とわたしが我が家にお招きして娘と対面していただいた時のことは今でも忘れられません。重症心身障害児を抱える家庭の風景を目の当たりにして、小村さんが「あなたたち、ご家族はこんな日常生活を送っていたのか…。自分の気持ちに拍車がかかった。呉市に必ず障害児のための施設の建設を実現しなければ」と声をふり絞るように語られました。後日、ご本人から届いた手紙に記された「今日の悲しみを明日の活力にしましょう」という言葉はずっと大切にしていますね。

小村さんの協力を得て、呉市への障害児施設の建設に向け、協賛・支援をいただくための企業回りといった忙しい日々がはじまりました。会席で利用した流川さんのママさんたちにもずいぶん寄付していただき、大いに感謝したものです。紆余曲折を経たのち、最終的には2012年、呉市に社会福祉法人広島リハビリテーション協会さんが運営する医療型障害児入所施設・療養介護事業所「ときわ呉」が誕生しました。厚労省の医療制度の改革により、“日本で最後の障害児に特化した小児病院”となった施設の開設にあたり、NPO法人TOMとしても「井戸を掘ったのはわたしたちだ」という自負がありますね。ただ、地域に重症心身障害児のことを理解してもらうための施設を呉市に開設する、という当初の目的だけは達成できました。「一念岩をも通す」、強く念じていれば必ず花が咲くことを実感した次第です。

TOMの活動で、わたしが呉、広島、廿日市を飛び回る日々が続く中、16歳になった娘は、社会福祉法人三篠会さんが広島市佐伯区五日市に開設した重症児・者福祉医療施設「鈴が峰」に入所することになりました。わたしがこの施設のPTAの父兄会会長を務めていた関係もあり、重症心身障害者の入所者第1号です。一方、息子は障害者の妹や福祉活動に勤しむ母の姿を間近に見て進路を決めたのか、山口大学教育学部特殊養護養成学科に入学、自ら率先して専門分野の勉強を開始しました。子供たちは、それぞれ新しい世界に踏み出したわけですが、TOMの活動で多忙なわたしと、妻の生き方を理解できない主人の関係は冷え切っていたのです。時間をかけても夫婦のすき間は埋めることができず、24年間の結婚生活にピリオドを打つことになりました。わたしが46歳の時のことです。

離婚を機に、わたしが重症心身障害児の支援活動に、ますます精力的に取り組むようになったのは言うまでもありません。いつものように現場を回っている時、予想もしなかったお誘いを持ち掛けられました。その頃、全国で女性の副知事や副市長を起用する気運が高まっており、県北の三次市でも女性副市長の誕生を公約に掲げた現職の市長が相応しい人材を探していたらしく、「いろんな人から山田さんを推す声が出てくるので是非お願いしたい」と依頼されたのです。わたしとすれば、まさに青天の霹靂で最初は「副市長なんて、自信がないのでお断りしよう」と思いました。

ひとまず、身内の両親と息子に相談してみると…。母は「あなたはいつも突拍子もないことをするから心配でたまらないわ」と嘆くし、父は「行政の仕事は大変なので、死にたいと思うようなこともあるだろうが、その時はさっさと帰ってくればいい」とニヤリと笑うだけ。結局、息子に「お母さんは、いつも人には“前向きに頑張れ”と言ってきたのに自分がグズグズ悩むのはおかしいよ。せっかく人から請われているのに前向きに受けてみればいいじゃないか」と後押しされたのが決め手となり、申し出をお受けすることを決心しました。

そして、平成20年12月19日、三次市では初めての女性副市長に就任。わたしが50歳の時です。着任する一週間ほど前に三次入りしたのですが、まずは寒さにびっくり。昔から雨女で知られるわたしを迎えてくれたのは雨ならぬ雹(ひょう)でした。実のところ、離婚して金銭的に余裕のなかったこともあり、出してもらえると思っていた引越し費用などが出なかったことから借金を背負っての現地入りです。なんだか、田舎から都会にではなく、都会から田舎へ出稼ぎに来たような気がしたものです。ともあれ、寒さが身に染みる右も左もわからない土地での新生活が始まりました。

登庁すると、わたしを抜擢した市長からは「三次を明るく活性化させるために力を貸してほしい。そのためには女性の感性が必要だ。山田さんの感性で市政にハレーションを起こしていただきたい」と言われ、それまでの経歴から福祉保健や子育てを管轄する民生・市民部門を担当することになりました。就任してすぐに着手したのが三次市には保育士が足りていないので、保育施設への入所を待つ待機児童がいる問題の解消です。原因を突き止めてみると、三次市には保育士の人数が少なく、その理由は給与が低いため、仕事を続ける人がいないことが分かりました。早速、議会に働きかけて、賃金を上げることを決定し、保育士を増やすことにこぎつけました。

保育士の確保と併せて取り組んだのが、県北初の「療育指導センター」の開設です。障害児の就学までの治療や教育を行う「療育センター」は、安芸高田・三次・庄原の広域事業としても必要と考えたのですが、公的施設としては人口35万人以上の都市への開設しか認可されないため、当時人口68,000人の三次市では開設できません。そこで、わたしは“指導”を間に入れることで民間が運営する施設とすれば、開設が可能になる、と提案したんです。三次市として3,000万円を予算取りして地元の重症心身障害者施設の小鹿学園さんに運営をお任せすることで実現できました。あと、福祉関連では、園芸福祉活動を地域に根付かせる「園芸福祉士」の養成にも尽力しました。その結果、三次市は西日本で最初に認定資格を取得できる市になったんですよ。

仕事に馴れてくると、これまでにないアイデアを出して色々やってみたくなりました。市役所を訪れたお母さんから預かった赤ちゃんをわたしが抱いて庁舎内を歩き回ってみたのもそのひとつ。これは「赤ちゃんの笑顔を見て微笑むことができない人は病んでいる」というカウンセリングの一例で、市民を迎える各部署の職員の反応を確かめる意味もありました。あと、市役所を市民に身近に感じてもらえるよう子供連れで来られた方にグッズやお土産を渡すサービスを行ったこともあります。

目新しい試みばかりするせいか、わたしの活動が目立ってくると、少し面白くない人もいたようです。「あの女性副市長が…」と興味本位に見られたり、「何かとお騒がせな副市長さん」と揶揄されたりしましたね。ある時、議会にスカーフを巻いていくと女性議員から「副市長の服装が派手で議会に相応しくない」と嫌味を言われたことも。さすがにカチンと来て「申し訳ありません。わたしは地味な服を着ても派手に見えるんです」と開き直っていましたが。

“出る杭は打たれる”のことわざ通りなのか?次第にご自身が適材として登用したはずの市長もわたしがやること、なすこと全てに異を唱えられるようになってきました。のちに三次市長になられた当時の副市長さんにいつもフォローしていただきましたが、「三次市のために命がけで頑張ろう」と気負って要請を受けた分、拍子抜けしてモチベーションは下がる一方です。市長と考え方の違いを痛感し、市民の皆様には申し訳ないと思いつつ、平成22年12月、表向きは「一身上の都合」を理由に辞職願を提出。丸2年過ごした三次の地をあとにすることになりました。

広島に帰ると感傷に浸る間もなく、広島市長選に立候補した大原邦夫先生の応援を依頼されて弁士として選挙運動に参加したり、「広島政治経済研究会」の女性部長のポストに就いたりと、また忙しい日々の始まりです。平成23年から3年間は、呉市の国民宿舎音戸ロッジ跡地で株式会社音戸テラスが運営していた天然温泉施設「瀬戸内オーシャンスパ汐音」(※令和3年3月閉店)の総支配人も務めました。地域の温浴施設として親しまれたこの施設では、生まれ故郷の阿賀でわたしのおしめを替えてくれた方々と30年ぶりに再会するなど、楽しい思い出が多いですね。

その後も、株式会社ネクサス、株式会社YKB’sグループ、株式会社シティガス広島、株式会社伍光といった地元企業さんの顧問を歴任させていただいておりますが、「後悔のない人生を送りたい」という思いから、令和3年11月、わたしが代表取締役を務める“株式会社 利(とし)カンパニー”を設立いたしました。NPO法人TOMの活動や行政で培った経験を活かして、地域の皆様のお役に立てるよう様々な事業に取り組んでいく考えです。12月1日には、広島市の歓楽街、流川にビジネスの社交場として利用していただくために“社交倶楽部 利(とし)”をオープンいたしました。わたしが障害児に特化した小児病院の建設に向けて協賛・支援を募った際に、快く寄付していただいた流川のママさんたちに恩返しするためにも、このお店をコロナで苦戦する流川に活気を取り戻す起爆剤にしたいと思っています。

振り返ってみると自分でも驚くほど、いろんな経験をしてきましたね。これからも人生は続きますが、わたしの原点となったのはやはり、重症心身障害児の娘の存在です。あの子がいたから、わたしは多くを学ぶことができ、様々な世界へ飛び込むことができました。大学卒業後、広島県教育委員会で地域の教育に貢献する道を選んだ息子も然り。わたしたちの進む道を開いてくれた娘は、家族の礎(いしずえ)なんです。少し落ち込むことがあった時、NPO法人TOMの活動でとてもお世話になった、当時は株式会社アスティの取締役社長を務めておられた田坂弘和さんに「大変なことも多いと思うが、天は必ず見ているからね」と励ましていただいたことがあります。娘を礎に、いま日々を笑顔で生きていけるのは、天が見ていてくれたおかげに違いありません。この先も何があろうと、へこたれることなく、前を向いて進みます!

《山田利英子(やまだりえこ) PROFILE》

〇株式会社 利カンパニー 代表取締役
〇社交倶楽部 利 代表

1958年生まれ。呉市出身。1978年広島文教女子短期大学卒業後、呉市阿賀中央保育所勤務。1993年から知的障害や重症心身障害児を支援する団体の代表などを務め、2008年広島県三次市初の女性副市長に就任。福祉保健部や子育て支援部など、民生・市民部門を担当し、2010年退任。その後、株式会社音戸テラス「汐音」総支配人、株式会社ネクサス顧問、株式会社YKB’sグループ顧問、株式会社シティガス広島顧問、株式会社伍光顧問などを歴任。座右の銘は「天は必ず見ている」。

【株式会社 利カンパニー】
〒732-0826 広島市南区松川町1-18‐1102号
電話&FAX:(082)264-0241

【社交倶楽部 利(とし)】
〒730-0033 広島市中区堀川町1-30 QUONK3F
電話:(082)567-5106
営業時間: 20:00〜25:00
定休日: 日・祝祭日

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