【広島人の履歴書】
File.2 山田利英子さん 株式会社 利カンパニー 代表取締役 《前編》

【広島人の履歴書 】


広島と縁のある各界のオピニオンリーダー自らが語る今日までの足跡。知られざるエピソード満載の履歴書(プロフィール)には、現在を生きるヒントが隠されています。

生後7か月の愛娘が急性脳症に
重症心身障害児の支援活動へ

昭和58年11月、生後7か月の長女が医療災害ともいえる不慮の事故で急性脳症に罹患しました。短大卒業後、保育園の教諭を経て結婚、長男と長女2人の子供に恵まれて普通の主婦として生きていくはずだったわたしにいきなり降りかかってきた大きな試練でした。この出来事が、のちに重症心身障害児の支援活動や、副市長として地方行政に関わる人生のターニングポイントとなったわけですが、その道のりはまさに波乱万丈。これから成し遂げたい夢や目標も多いことから、今日に至るまで自分が何を思い、何を考えてきたのか、一度振り返ってみます。

わたしは昭和33年、呉市阿賀町生まれです。呉の主要産業である造船会社の幹部社員だった父と教育熱心な母の間にできた5人きょうだいの第3子ですが、うち3人が生を享けることができず、二つ違いの弟と2人で育ちました。実家があったのは休山のふもとの阿賀地区、昭和時代の呉の田舎町です。当時、我が家は母方の祖父がそれなりに由緒ある家系とされていたこともあり、地域の見守り役的な存在でした。物心ついた頃、「どこのお嬢ちゃん?」とたずねられて、祖父の名を告げれば、町内は全てフリーパスなんですよ。

おませで快活だったせいか、ご近所さんにことのほか可愛がられ、通りを歩いていると「りえちゃん!りえちゃん!」と手招きされ、おやつや食事どころか、「お風呂に入って行きなさい」とお風呂までいただいたりしたものです。家族同然にいつも優しく接してくれるお年寄りも多く、子供心に「わたしには、なぜおじいちゃんや、おばあちゃんがいっぱいいるの?」と不思議に思っていましたね。

こうして地域の人に愛されながら幼少期を過ごしていたところ、我が家に大きな転機が訪れました。父の仕事で東京へ引越しすることになったのです。新居となる社宅が練馬区南大泉にあったので、わたしも一年保育として地元の保谷幼稚園へ入園することになりました。当時の阿賀は、まだ牛が荷物を運んでいて、気を付けて道を歩かないと牛糞を踏んづけてしまうようなのどかな呉の田舎町です。遠く離れた環境も生活文化も全く違う東京の幼稚園に通う新たな生活は、幼い自分にとって大きな衝撃でした。近所のお年寄りに可愛がられ、野山を元気に走り回っていた生活が一変し、見知らぬ土地の同世代の子供たちに囲まれる毎日が始まったわけですから。

とはいえ、少し経つと新しい環境に順応できたのか、持ち前の明るさを発揮すると、徐々にお友達も増えて、いつしか先生にも一目おかれる人気者になることができました。保谷幼稚園時代に担任していただいた谷口てる子先生とは、いまでもお付き合いがありますよ。その後、練馬第2小学校へ進み、3年生になって東京での暮らしにすっかり馴染んだ頃、現地での勤めを終えた父の転勤が決まり、5年ぶりに生まれ故郷の呉に引っ越すことになりました。

懐かしい阿賀の町に帰ってきたけれど、幼稚園から小学校低学年までの5年間を楽しく過ごした東京生活により、わたしはすっかり浦島太郎状態でした。言葉を覚える時期に東京で標準語を身に付けたせいか、昔はよく聞いていたはずの呉弁がよくわかりません。周りの大人が「〇〇の“おごうさん”が…」なんて会話していると、何をいっているのかさっぱりわからない。一方、転校した阿賀小学校では、同級生に「○○がさぁ」と話しかけると、「呉では“さぁ”なんて言わないから」と白い目で見られました。呉生まれにもかかわらず、よそ者扱いで疎外感に苛まれたものです。

小学校では、家庭科クラブやバレーボール部に籍を置きましたが、意地悪されたり、家に帰れば教育熱心な母に家庭教師をつけられて勉強を強制されたりで、あまり楽しかった記憶はありません。その後、阿賀中学校へ進学しましたが、馴染めないという思いは強まるばかり。呉の町が嫌いになっていたので高校は市外の学校を志望して広島文教女子大学附属高等学校へ進みました。学校が広島市の郊外、安佐北区可部にあるため、学生寮に入りましたが、はじめての寮生活に対する不安よりも何かと口うるさい親元を離れることができて、自由になった気がしましたね。

開放感を抱きながら、高校時代は数学クラブに入って顧問の先生から苦手だった数学の面白さを学んだり、それまで学校になかった茶道部を作って部長を務めたり、充実した時間を過ごしました。大学は、そのまま広島文教女子短期大学(※現広島文教大学)幼児教育学科へ進学。わたしは幼い頃から「幼稚園の先生になりたい」と口にしていたので、その夢の実現に向けて第一歩を踏み出したわけです。

大学には、心配性の母に命じられて寮ではなく、呉の自宅から通うことに。毎日、呉線と可部線の電車を乗り継いで通学する2年間はあっという間に過ぎました。幼児教育の免許取得に向けての実習先は、実家の近くで幼少時代に遊んでいた阿賀中央保育所でしたが、小さい頃からなりたい職業に決めていた想いが通じたのか、ほぼ満点と言える99点という高評価をいただき、晴れて幼児教諭になることができました。

昭和53年、短大を卒業した春から勤務したのが、実習先の阿賀中央保育所です。0歳~1歳の乳児組の担当となり、希望に胸を膨らませていたのですが…。もう少し大きい3、4歳児などを担当した実習の時とは勝手が違い、子供を産んだことのない自分に乳児の扱いは荷が重すぎました。あれこれ悩むことも多く、最初の頃は胃潰瘍になったこともありますね。仕事に慣れてくると、どの子も可愛くてやりがいを感じていましたが、2年10ヵ月勤めて結婚を機に退職しました。

実は、短大在学中の19歳の頃からお見合いをさせられていたんですよ。「家事手伝いは良家の子女の役目」が口癖の父はもちろんのこと、母からは「女性は若くて可愛いうちに嫁がないとダメです。22歳までに結婚しなさい」とせかされる家でしたから、親に逆らうのも面倒だし、命じられるまま受けていました。結局、母の言いつけ通り22歳で結婚するまでに父の取引先の人を含め、7回お見合いしましたよ。ちなみに7回目のお見合いで出会った結婚相手は、短大の華道部のお茶の先生からの紹介です。

こうして昭和55年10月に地元銀行に勤務する主人と結婚、翌56年9月に長男を、58年5月に長女を授かりました。当時、4人家族で安芸区船越町に住んでいましたが、その後の運命を変える事故が起こったのはわたしが24歳、長女が生まれた年の10月のことです。生後まもない娘が深夜に熱を出し、激しくけいれんしはじめたのです。急いで船越町のかかりつけの病院に運んだのですが、乳児によくある症状のように診断され、まもなく他の救急患者が飛び込んできたこともあって、きちんと診てもらえませんでした。それ以後、娘は目が開いているものの、うつろな状態がつづくので、専門科のある病院に転院して検査してもらったところ、「急性脳症」という病名を告げられました。

急性脳症とは、主に乳幼児や小児に発祥する病気で、脳の急激な浮腫(むくみ)によっておう吐や血圧・呼吸の変化、意識障害、けいれんなどがみられる脳の危険な状態です。大事な我が子が思いもよらなかった症状となり、「このままでは一年もたないかもしれません」という残酷すぎる言葉まで聞いてしまい、目の前が真っ暗になりました。「あの晩、違う病院に運んでもらえば良かった」、「あの時はこうすれば良かった」と、後悔は尽きません。とにかく長女が回復することだけを願って毎日付き添う辛い日々が始まりました。

いろんな出来事がありましたよ。まず、母親が妹につきっきりのため、まだ2歳の息子は寂しかったのでしょう。わたしが病院から帰宅しても落ち着かず、周りをうろうろ行ったり来たりするんです。どうやらストレスで心身症になりかけていました。ある時、顔を見ると視点が定まっていないので、頬を2、3回はたいて「ともちゃん(娘)がいま、大変なの。お母さんをしばらく、ともちゃんに貸してあげてね」と抱きしめたところ、息子が泣きながら「ともちゃん、なおる?」とひとこと。その日を境にお兄ちゃんとしての自覚を持って、姑のおばあちゃんとしっかり留守番してくれるようになり、少し安心したものです。とはいえ、わたし自身にしても藁にもすがる思いで宗教的な施設を訪ねるまで追い詰められていましたからね。この時は、普通に考えると非常識な話で毎月高額なお金を求められることに気付いて「科学的な治療に頼らなければ」と再認識する良い機会となり、お世話になることはありませんでしたが。

結果的に娘は、命を失うことこそ免れましたが、病状が回復しないまま、急性脳症という“重症心身障害児”として生きていく運命となりました。自分で起き上がることもできない娘と共に、これからどう暮らしていけばよいのか、涙にくれたものです。周りにも相談したところ、知り合いの住職さんから「医療ミスによって不幸な事故に見舞われる人は、あなたの後にも続くはず。なぜ医療裁判にかけないのですか?」と問われました。わたしは「裁判をしても10年や15年はかかります。娘だけならまだしも、二つ違いの幼い兄はその間、母親が鬼のような顔をして闘う背中を見て育つんですよ。まともに育てる環境とは思えません」ときっぱりお断りしました。

そんなある日、娘を背負って息子の手を引きながら広島駅の近くを歩いていたわたしの姿を偶然、仕事の途中に車で通りがかった父が見かけたそうです。帰宅した父が「なに不自由なく育てた利英子が、重病の子供を抱えてこれからどんな思いをするのか、と考えたら、せつなくて路肩に車を停めて泣いてしまったよ」と口にしたことを、母から聞かされ、言葉を失いましたね。娘が障害を持つことになっただけでも悲しくてたまらないのに、わが親にまで辛いとか、せつない思いをさせることになるとは…。障害児を持つことは本人だけでなく、その親の苦しみまで背負わければならないわけです。厳しい現実を知ったわたしは「自分も親も悲しまないですむように、これからは普通の健常者よりも幸せにみえるようにしなくては。そのためにはわたしが動かなくてはいけない!」と頭を切り替えるようになりました。

その後、主人の転勤に伴い、家族4人の住居は船越から東雲へ引越したのち、勤務先に近い廿日市市の阿品台でマイホームを建設することに。娘も小学校に通う年齢となり、健常児の通う普通の小学校か、養護学級に進ませるかを選択する時期がきました。「娘の障害に合わせて育てていきたい」と考えていたわたしが選んだのは養護学級です。入学式の日、阿品台の日赤看護大学近くの道を娘の乗ったバギーを押して「この子の学校生活がはじまるわけだけど、これから見当もつかないことが降りかかってくるんだろうな」と思いながら歩いたのを覚えています。以下、《後編》に続く。

《山田利英子(やまだりえこ) PROFILE》

〇株式会社 利カンパニー 代表取締役
〇社交倶楽部 利 代表

1958年生まれ。呉市出身。1978年広島文教女子短期大学卒業後、呉市阿賀中央保育所勤務。1993年から知的障害や重症心身障害児を支援する団体の代表などを務め、2008年広島県三次市初の女性副市長に就任。福祉保健部や子育て支援部など、民生・市民部門を担当し、2010年退任。その後、株式会社音戸テラス「汐音」総支配人、株式会社ネクサス顧問、株式会社YKB’sグループ顧問、株式会社シティガス広島顧問、株式会社伍光顧問などを歴任。座右の銘は「天は必ず見ている」。

【株式会社 利カンパニー】
〒732-0826 広島市南区松川町1-18‐1102号
電話&FAX:(082)264-0241

【社交倶楽部 利(とし)】
〒730-0033 広島市中区堀川町1-30 QUONK3F
電話:(082)567-5106
営業時間: 20:00〜25:00
定休日: 日・祝祭日

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