【広島人の履歴書】
File.8 光廣昌史さん 株式会社 オフィスミツヒロ 代表取締役 《前編》

【広島人の履歴書 】


広島と縁のある各界のオピニオンリーダー自らが語る今日までの足跡。知られざるエピソード満載の履歴書(プロフィール)には、現在を生きるヒントが隠されています。

木材業を経て税理士となった父
同じ道に進み、歴史を受け継ぐ!

家業の木材業を手伝いながら税理士となった父・光廣文雄の背中を見ながら育ち、いつの頃からか同じ道に進むことを志しました。25歳で税理士となり、現在は亡き父に代わって事務所を引き継いでいますが、近年は「中小企業における経営の継承の円滑化に関する法律」が施行されたのを皮切りに企業組織再編税制、国際税務、企業会計原則など、目まぐるしく制度が改正されており、我々の業務を取り巻く環境もより複雑化し、広く深い専門知識が要求されています。創業以来、常に時代の変化を逸早く察知し、個人および法人を健全な発展へと導くアドバイザーとして活動してきたオフィスミツヒロが、引き続き、お客様の求められる質の高いサービスを提供してくためにどのような体制を整えているのか?…。今日までのわたしの足跡と合わせてご紹介していきましょう。

先祖は明治42年、木材業で開業。

前置きとして、弊社のルーツを紐解いてみると、曽祖父の光廣福松が明治42年に広島市中区寺町で「光広木材店」を個人で開業したことに遡ります。その後、昭和14年に法人化して「光広木材工業株式会社」を設立、福松の養子となった祖父の猛が専務に就きましたが、昭和20年の原爆投下により事務所と工場は焼失し、同時に祖父も亡くなってしまいました。父の文雄は猛の3男(※長男・利夫、長女・政子、次男・幸二)です。原爆の痛手を乗り越えた光広木材工業は昭和21年に西区楠木町で事業を再開し、昭和25年には業務拡大に伴い「有限会社光広製材所」を設立。長男の利夫が社長を務めるこの会社で父も取締役に加わり、現場管理や営業業務を兄たちが担当し、山口経済専門学校(現・山口大学)出身で経理を学んだ父が事務方を任せられることに。

会社の数字を扱う関係で、一念発起して税理士資格を取得した父は、昭和36年3月に中区本川町で会計業務を行う「光広税務会計事務所」を発足したのに続き、6月には西区楠木町で木材の販売と不動産管理を行う「三光商事有限会社」を設立しました。三光商事は昭和41年に事業拡大のため、中区寺町に移転し、「有限会社光広企業経営センター」となり、本格的に経営コンサルタント事業をスタート。この会社が平成3年に現在の「株式会社オフィスミツヒロ」に社名変更して現在に至ります。

大人しかった少年が生徒会長に⁉

その父の長男として、わたしは昭和34年8月12日、中区楠木町で生まれました。家族は両親と弟2人。男3人の長兄ではありますが、幼い頃は次男と3男が喧嘩しているのをそばで眺めているような、大人しくて目立たない子供だったみたいです。真和保育園、広島市立本川小学校へと進んだものの、勉強やスポーツが飛びぬけて出来るわけでもないし、かといって腕白でもなく、本当に地味な存在だったのでしょう。従って、記憶に残る幼少時のエピソードや思い出はあまりなく、強いてあげれば夏と冬に家族旅行に出かけていたことくらいですね。

小学校5年の時に父が中区西川口に家を建てたことから、中学校は広島市立江波中学校へ進学しました。当時は1学年が10クラスもあるマンモス校だったので、大勢の同級生にまみれて引っ込み思案だった性格にも少し変化があったのか?水泳部と放送部に入部してクラブ活動に熱中するようになったんです。この二つのクラブを選んだのは、チームで行う競技やボールを扱うスポーツは苦手だけど、水泳なら自分だけで出来る個人競技であること、また放送部はアナウンスではなく、昔から機械いじりが好きなので音響機器の調整など技術部門があるのが理由でした。

こうしてクラブ活動を通じて友だちも増え、学校に行くのが楽しくなってくると、幼少期の大人しくて目立たない、存在感の薄いタイプだったわたしはどこへやら。いつの間にかボジティブで活動的になり、3年生の時には、なんと生徒会長に立候補して、当選してしまいました。生徒会執行部を率いる立場としての自覚も芽生え、少し勉強にも身を入れるようになると、成績もそれなりに上向いてくれた次第です。

見聞を広めた高校・大学時代。

高校は広島県広島舟入高等学校(現・広島市立舟入高等学校)へ進学。相変わらず、メカニック的な作業が好きだったので中学時代と同じ放送部に入部し、技術畑で腕を磨くことに。毎日の放課後のクラブ活動はもとより、放送部のメンバーと体育祭で使用する放送設備を徹夜で調整したり、合宿で学校の茶道室に泊まり込んで音響を活かした作品や放送素材を制作するのが面白かったことをよく覚えています。

放送部の他にも生徒会執行部の活動に参加するなど、自分なりに充実した高校生活もいつしか大学受験のシーズンを迎えました。第一志望の広島大学には力及ばず、第2志望として選んだ先が当時の国立2期校である香川大学(※経済学部経営学科)です。この大学を志望したのは、父が山口大学の前身とされる山口経済専門学校出身なので、同じように高松経済専門学校という商業関係の学校を前身とする香川大学の歴史を身近に感じたこともありますね。ちなみに、わたしが受験した年(昭和53年=1978年)が国立大学旧1期校、2期校と区分されていた入試制度の最後の年なんですよ。

そして何とか無事に合格。大学受験する頃から、自分が光廣家の長男でもあり、家業の税理士事務所を継ぐこともチラリと頭に浮かんでいましたが、まずは大学生活を楽しむことが先決でした。当時は、まだ瀬戸大橋も架かっておらず、岡山県玉野市の宇野駅と香川県高松市の高松駅との間で運航されていた宇高連絡船で四国へ渡る際は、生まれて初めて足を踏み入れる土地であり、親元を離れて生活するのも初めてということで、新生活に対する期待でワクワクしたものです。

入学後は、授業が終わると中学・高校時代の放送部の代わりに「AVEサークル」(視聴覚研究会)に入って放送・映像関連や番組制作の技術部門に携わるほか、大学祭の実行委員を務めたり、アルバイトにも時々出かけていました。アルバイトでは、酒屋さんの税金計算や経理業務から、宇高連絡船で催されていた夏の“納涼船”でのイベントに登場する着ぐるみのスタッフといったユニークなものまで、いろいろな仕事を経験しましたね。故郷・広島を離れ、海を挟んだ香川の地で過ごした4年間の大学生活は自分にとって実に貴重な時間となりました。

税理士としての第一歩を踏み出す!

家業のことも頭にあり、一応、大学時代から独学で税理士試験の勉強をしてはいましたが、いよいよ本気で資格を取らねばと考え、卒業後は広島にUターンして会計学院の3年コースの門を叩くことに。在学中の昭和57年に簿記論、相続税、翌年に財務諸表論、所得税、3年目に法人税…と段階的に資格を取得し、「家業に就く前にまずは他所の釜の飯を食っておこう」と、昭和59年11月、篠原喜八郎税理士事務所に入所したんです。その年の12月に税理士資格を取得した後は、同社のスタッフとして実務をこなす日々がスタート。同じ数字を扱う仕事でも会社によって、アプローチやアドバイスの手法の違いがあり、夜遅くまで電卓に向き合う日も続きましたが、税理士として必要なスキルを身に付ける上で有意義な期間になりました。業務の奥深さや幅の広さを知っていくと、「自分は税理士の仕事が嫌いではないな」と感じましたね。

当初3~4年くらいは、この篠原喜八郎税理士事務所にお世話になるつもりでしたが、昔から心臓疾患や糖尿病の持病のある父が体調を崩したということで、少し予定を早めて昭和61年7月に父が社長を務める有限会社光広企業経営センターに入社することに。税務や経営コンサルタントを主業務とする家業には、税理士である父、光廣文雄を筆頭に社会保険労務士、行政書士、不動産取引主任ほか、不動産関連会社のスタッフが40人ほど集い、各関与先の経営相談や記帳代行を行っていました。2代目のわたしも税理士の即戦力として、早速業務をこなす日々の始まりです。一方、プライベートでは、昭和62年2月に篠原喜八郎税理士事務所時代の同僚と結婚、その年に長男、平成3年に長女を授かりました。

自分にも家族が出来ると、社業にもますます励むようになりました。個人的に昔から情報収集することが趣味だったこともあり、昭和60年代に流行り始めた相続対策についても、いろいろな所で開かれるセミナーの情報を入手しては積極的に足を運んだものです。東京で開催された相続税対策の研修では、平川忠雄先生、山田淳一郎先生、本郷孔洋先生などに教えていただき、最新の情報を入手することができました。その後も東京で勉強会や情報交換会があると進んで参加しましたね。当時は、今のようにインターネットが発達していないので、最新の情報はどうしても東京に集中し、同じ情報が地方に流れてくるのは3~4年後でしたから。東京で多くの有名な先生方とご縁をいただき、沢山学ばせていただいた知識や技術は、今でもわたしの財産となっています。

こうして27歳で家業に就いて以来、税務のほか、企業のあらゆるサポートに取り組む日々を重ねる中、会社は平成3年に有限会社光広企業経営センターから株式会社オフィスミツヒロに改組しました。平成8年2月には、体調の芳しくない父に代わってわたしが代表取締役に就任。木材業から出立して、この会計事務所を創業した父が翌年1月に他界したため、本格的に2代目として事業を引き継ぐことになりました。父亡き後、時代のニーズに即応して独自の視点から企業のサポート業務を行う事務所に発展させるためのわたしの挑戦の始まりです。以下、《後編》に続く。

《光廣昌史(みつひろ まさふみ)PROFILE》

昭和34年8月12日、広島市生まれ。香川大学経済学部経営学科卒業。昭和61年、有限会社光広企業経営センター・光廣税務会計事務所に入所。平成2年、株式会社東京ファイナンシャルプランナーズ広島(現・株式会社DEPS)代表取締役に就任。平成8年、株式会社オフィスミツヒロ(※平成3年、有限会社光広企業経営センターから社名変更)代表取締役に就任。税理士、ファイナンシャルプランナー、行政書士などの資格を有する。主な著書に「社長、その税金は払いすぎ!」「企業相談・事業拡大のためのM&A」「宗教法人のための税務運営マニュアル」などがある。

【会社概要】

会社名  株式会社オフィスミツヒロ/光廣税務会計事務所
所在地  〒730-0801 広島県広島市中区寺町5番20号
     広島城南リバーサイドB.L.D 2階
     TEL 082-294-5000 FAX 082-294-5007 
創 業  昭和36年3月1日(法人設立昭和36年6月16日)
資本金  1,000万円
事業内容 税務会計 コンサルティング 相続 事業承継
ファイナンシャル 中国税理士会所属
従業員  30名

《資格者の内訳》
税理士 光廣昌史他4名 ファイナンシャルプランナー
CFP・1級FP技能士5名 AFP・2級FP技能士5名
行政書士1名 社会保険労務士1名

関連会社 株式会社DEPS 株式会社ウィルらいふサポート

関与先  広島県内を中心とした法人400余・個人300余

〇ホームページ https://www.office-m.co.jp/
〇株式会社DEPSホームページ https://deps.tv/
〇株式会社ウィルらいふサポート https://www.will-sts.com/

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