【コンテンツは負けない 】
Vol.1 手塚治虫のカルテ(前編)

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野球関連の出版物やインターネットの映画評論で活躍中のライター大藤恭一氏の「三度の飯より野球じゃけん」に続く新コラム。文学、漫画、映画など様々なコンテンツの魅力を解説します。

この春から中国新聞に、『神様に会いたい 手塚治虫×養老孟司』が連載されている。京都国際マンガミュージアムの初代館長を務めた養老孟司に、手塚治虫とテレビの対談番組の仕事が入った。二人には、「医学」「昆虫」「漫画」と共通のテーマがあった。お互い心待ちにしていただろうが、この対談は実現しなかった。オファーの一か月後、手塚が亡くなったからだ。胃がんだった。1989年の話だ。30年の月日を経て、「会えなかった記」の掲載が始まった。

養老の一人語りで始まるこの記事は、手塚の祖先について触れていた。手塚が描いた『陽だまりの樹』の手塚良庵。実在の人物だ。この作品は、幕末から明治にかけての動乱期を舞台に、良庵の生涯を著している。小石川の蘭方医の息子 良庵は、政争、災害を生き抜き、初の軍医となった。「医」と手塚作品は、切り離せない関係にある。手塚治虫の作品は、少年期に親しんだ。年をとってからも折に触れて手に取ったが、この記事を読んで、ふと思った。手塚が描こうとしていたものは、何だったのだろうか。

ベレー帽に黒縁眼鏡、大きな鼻が印象に残る手塚は、1928年 大阪府豊中市に生まれた。大阪帝国大学附属医学専門部に学び、医師国家試験に合格。漫画と昆虫を愛し、本名の手塚治に虫をつけて、治虫(おさむ)とした。1947年、『新宝島』がブレイクした。手塚は、ハリウッド映画にインスパイアされたカット割りを漫画に持ち込み、ヒット作の量産を始めた。この原稿は手塚作品を追いかけるのが目的だが、膨大な量の作品をひとつひとつ上げるわけにはいかない。はしょっていく。

◎1951年『ジャングル大帝』

人間に育てられた白いライオン レオがアフリカに戻り、人間や動物、自然災害に立ち向かい、ジャングルの平和を守る。時折、悪役のジャッカルらが歌って踊り、ミュージカル仕立てになる。ミュージカル『ライオンキング』は、この作品にインスパイアされたとの声もある。

◎1952年『鉄腕アトム』

サーカスに売られたロボットのアトムは、お茶の水博士の努力で自由の身となる。10万馬力のパワー持つアトムは、博士のもと、人間の子になるべく悪のロボットたちと戦う。『鉄腕アトム』の参考になっただろう作品に、カルロ・コッローディ作の童話『ピノッキオの冒険』が挙げられる。さらには『鉄腕アトム』が影響しただろう作品もある。2001年、スティーヴン・スピルバーグが少年ロボットを主人公にした『A.I.』を発表した。余談になるが、1963年、『鉄腕アトム』がフジテレビで放映される際、TBSの『エイトマン』チームとの表沙汰にしにくい、しのぎあいがあったと聞く。いずれもロボットものだ。これはまた別の機会に。

◎1967年『どろろ』

戦国武将に使える父は、天下を獲る野望のため、生まれてくる子の身体を48の魔物に分け与えた。ほとんどの部位を失い川に流された子は医者に拾われ、義手・義足を与えられる。子は百鬼丸と名付けられ、身体に直接植え付けられた武器を頼りに、48の魔物を退治する旅に出る。魔物を一体退治するたびに、百鬼丸には自分の手や足が戻ってきた。百鬼丸は、生身の人間に近づくたびに武器が減り、弱くなっていった。そんな折に道連れとなったどろろは…。

3つの作品を取り上げた。手塚に脂がのり切っていた時代の作品ばかりだ。手塚の作品に、傾向が見えてきた。「健常な人間でありたい」そんな手塚の声が聞こえてこないか。『ジャングル大帝』の主人公レオは、白く生まれた。アルビノだ。下手をすれば疎外されかねないその白さを、ジャングルの王者の象徴として生きていく。アトムは、人間に生まれたかった。人間になることを夢見て、悪のロボットと戦い続けた。百鬼丸は、身体の48カ所を失って生まれた。失った部位を取り戻すため、身体を奪った妖異と戦い続ける。一緒に旅を続けるどろろは、女の子だ。戦国時代を生き抜くために、男のふりをしていた。

まだまだある。百鬼丸は『ブラックジャック』となって生き返った。幼い頃の事故で継ぎはぎだらけになったブラックジャックに、姉の身体の中で畸形嚢腫として生きたピノコ。内臓だけのピノコは、成人して天才外科医となったブラックジャックに身体を作ってもらった。どろろと百鬼丸の関係性は、ブラックジャックとピノコに受け継がれた。百鬼丸の身体的特徴も、この二人に引き継がれた。

『リボンの騎士』のサファイアは、女の子だ。生まれてくる赤ん坊に魂を入れる役目の天使〝チンク〟は、身体が女の子のサファイアに男の子の魂を入れた。今で言う、LGBTQだ。サファイアは、その生きにくさの中で政争に巻き込まれていく。『リボンの騎士』は、1953年の作品である。手塚の先見性、または満たされない思いには恐れいる他ない。

ずいぶん乱暴にはしょった。手塚の手による作品数は、700タイトルに及ぶという。『火の鳥』のように書き続けられたものもあれば、短い作品もある。ヒットメーカーではあったが、手塚ファンに訴求しなかった作品もある。手塚が求める作品性と幅広い読者層を獲得するエンタメ性がリンクしなかったのが理由かもしれない。

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