世界中から人々が集う地・広島。宮島や原爆ドームなどの観光にとどまらず、広島を舞台に活躍する外国人が増えています。その一方では、広島と世界の架け橋となり、多文化共生の一助を担う日本人も多くいます。 世界を繋ぐ“広島人”へのインタビューをどうぞ!

今回ご登場いただくのは、広島大学大学院人間社会科学研究科准教授の河本尚枝さんです。「祖父の影響で、なんとなく幼いころから外国に興味を持っていた」と語る河本さんは、通訳として、教師として、研究者として、これまで様々な立場で外国の方々と接してきました。2005年に広島大学院で教鞭をとることになって以来、今日まで、幅広い分野で外国人をテーマに研究を進められています。日本在住の外国人が増える中、言語も文化も違う人たちとどのように関わっていくべきなのか?これまでの調査・研究から感じた河本さんの思いや、多文化共生社会の課題について聞いてきました。
―まずは、簡単に自己紹介をお願いします!
私は、1966年に山口県周南市(旧徳山市)で生まれました。今では、ほぼ毎日外国人に会い、彼らの文化や生活について研究していますが、食堂を経営する両親の下に生まれたので元々、外国人とつながるような縁は全くありませんでした。唯一、“外国”という存在を教えてくれたのはおじいちゃんです。祖父は、1918年頃、英語を勉強したいという思いから渡英を計画したものの、紆余曲折あって上海の日本租界で働きながらイギリス租界で英語を学ぶことに。祖父は約2年間、上海で過ごしたのち帰国し、まだ物心つく前の私に対し、上海在住中の話を何度も聞かせてくれました。もちろん当時は何のことかよくわからないまま話を聞いていましたが、この時から、うっすらと頭の片隅に“外国”というキーワードを意識していたのだと思います。
時は経ち、高校卒業のタイミングで、「さあ、これから何をしようか」と考えた時、頭には二つの道が浮かんでいました。一つは、料理の道です。料理といっても、幼いころから食堂を経営する両親を見て育ち、同じ道に進んでも勝てないと思っていたので、パティシエになろうと考えていました。もう一つは語学の道です。今後の就職を考えれば英語かスペイン語が良いだろうと考えていましたが、「そういえば、おじいちゃんが上海に行っていたな。うん、中国語にしよう」と今思えば安直ともいえる決断を下し、語学なら中国語と決めました。最終的に、専門学校は年をとってからでもいけるかもしれないと思い、大阪外国語大学(現在は大阪大学外国語学部に統合)へ進学することを決めました。
―大学入学後の経歴を教えてください。
入学当初は、将来、通訳の仕事に就きたいと思っていました。しかし、在学中に開催された「なら・シルクロード博覧会」で通訳の現実を目の当たりにします。友人の代打として急遽、中国少数民族歌舞団の通訳を務めたのですが、実際にやってみると確かにかなり高度な語学力が必要だし、やりがいはあるのですが、如何せん、しゃべった内容を右から左に流すだけで必要最小限しか話せないので、おしゃべりな私からすれば退屈な作業でした。さらには、台湾の青年会議所の方々が自治体を回る際に通訳として同席する機会がありましたが、会議所所長が話す内容がどの自治体でも一言一句変わらず、途中で飽きてしまう始末。この経験から、通訳の仕事は向いてないかも…と思い、ほかの道を探し始めます。卒業が迫る中、いろいろ考えて自分なりに出した答えは「日本語教師になりたい!」。ただ、日本語教師の正規職員になるためには大学院への入学が必須条件だったので、3年くらい働いてお金を貯めようと思い、ひとまず中国専門の旅行会社に就職しました。
しかし、せっかく決まった就職先でもアクシデントが。就職した1989年の6月に天安門事件が勃発したのです。事件をきっかけに会社で組織再編があり、当初やりたかった業務とは別の部署に異動を命じられたので早々に自主退職。今思い返せば、もう少しうまく立ち振る舞えたなと感じますが、良い社会勉強になりました。とはいえ、お金を貯めるためには働かなければなりません。次なる道を探していた時に目に飛び込んできたのは、“台湾で日本語教師を募集”という新聞広告でした。大学生時代に日本語能力教育検定という試験に合格していた私は、日本語教師としての資格(文部大臣認定)は持っていたので、これだ!と思い応募したところ、運よく採用され、2年間、台湾で日本語を教えることになりました。大学でみっちり語学を勉強してきたので教えることについて自信を持っていましたが、台湾に渡ってすぐにその自信は砕け散ります。初めての模擬授業で立ち位置から板書の仕方、話し方やスピードまで、全てにおいてダメ出しをくらい、「お前なんて帰れ!」と言われてしまったのです。学ぶ側としての視点と教える側の視点は全く異なるものだと気づかされた瞬間でした。とはいえ、日本を飛び出してきたので逃げるわけにもいかず、なんとか堪えて一人前の教師になるために努力しました。その結果、かなり濃密で充実した2年間を過ごせました。実はきついダメ出しをした当時の先生とは今でも連絡を取り合うほど、仲良くなったんですよ。

台湾から帰国したのち、非常勤日本語教師や会社員として約8年間、名古屋や大阪で働きながら、正規の日本語教師となるために京都の龍谷大学大学院に入学。当時、名古屋には多くのブラジル人が働きに来ていたのですが、彼らの様子を見てみると、ある程度の日本語が話せるのに、部屋を借りられないとか、残業代を払ってもらえないとか、保育園の先生と意思疎通できないとか、語学ではない部分で壁にぶつかっていました。言葉が話せれば大抵の問題は解決すると思っていたので、彼らが壁にぶつかる原因を調べたいと思うようになり、この頃から日本語教師とは別に社会学や人類学といった分野にも興味を持つようになります。2000年に修士課程を修了し、三つの大学で非常勤講師を掛け持ちしながら、講師を募集している大学に履歴書を提出。そして2005年2月、広島大学に拾っていただき、私の広島生活がスタートします。ちなみに、大学入学以来、短期間で居場所を転々としてきた者にとって、今日まで約20年間生活し続けている東広島は、地元・周南に住んでいた時間よりも長く、第二の故郷と呼べるような場所になりました。
―晴れて専任講師となった後、広島大学でのお仕事は?
私たちの仕事は教育と研究の二本柱です。教育というのは、それぞれの専任に担当科目が割り当てられるもので、いわゆる「多文化共生」をテーマに、日本文化と外国人の関係や、日本に住む外国人を取り巻く問題などについて授業しています。ここで言う日本文化とは、日本の伝統芸能など、古い時代にフォーカスしているわけではありません。むしろ今の日本社会に焦点を当て、現代日本社会の特殊性と言われるものが、実は日本の文化や歴史に根付いているということ、それが日本で暮らす外国人にどのような影響を与えるかなどについて教えています。
研究で言えば、日本国内においては、在住外国人の福祉や介護について、国外においては、外国で暮らしている日本人の高齢期の暮らしや介護ニーズなどについて調査しています。本来、福祉というのは、社会の中で誰もが問題なく生きられることを念頭に置くもの。であれば、年をとっても、障害があっても、たとえ片親であっても困らないような支援や利用できるサービスがあり、みんなが社会の中で生きていけるというのが理想です。この点、今の日本で本当に実現されているのだろうか、外国に住む日本人は十分にサービスを受けられているのだろうか、課題があるのなら原因は言葉なのか、文化なのか、はたまた別の理由なのか、などという視点で研究しています。
―これまでの調査で印象に残っているエピソードはありますか?
以前、広島に住む中国残留孤児の方を対象にアンケート調査を実施したことがあります。「介護サービスを知っていますか」、「ふだん誰と過ごしていますか」、「困ったときは誰に相談しますか」といった質問を行ったところ、その中に「日本での生活に満足していますか」という問いがあるのですが、ほとんど全員が“満足している”と回答しました。しかし、彼らの収入を見ると生活保護でギリギリ暮らせるレベル。それでも満足というのは、ちょっと日本人では考えられない感覚でしょう。不思議に思い、もう少し詳しく聞いてみると、彼らは中国に住んでいた時の自分と比較していたことが分かりました。中国にいたころに比べたら、医療も介護も十分に受けられると…。それほどまでに中国での生活が過酷なものだったのでしょうが、20年、30年と日本で暮らし続けながら、日本人と比較するのではなく、常に過去の自分と比較していたことに大変驚きました。おそらく、意識的に日本人と比較していないのではなく、日常的に身内でしか情報共有を行わず、日本人と関わる機会が極端に減少した結果、今の日本人について余り知らないのだと思います。つまり、住んでいる場所は日本だけれど、彼らは“中国残留孤児”というコミュニティの中で生活しているのであり、日本で暮らしているという意識が薄いのかもしれません。同じことが子供の世界でも起きているのではないか、外国に住む日本人コミュニティの中でも起きているのではないか、と強く考えさせられる体験でした。

○○人コミュニティというのは確かに便利なんです。同じ言葉を話し、似たような文化を持つ人たちが集まっているわけですから安心感もあります。日本に住む外国人の中には、「日本(コミュニティの中)での生活はすごく楽しくて不満はありません」という人もいますが、当人の周りを見てみると、子供たちが自分の仕事と親の介護で大変な思いをしていたり、介護サービスの存在や使い方が分からずに老老介護をしていたりといった状況が生まれているかもしれません。本人たちがそれで良いと言うのなら、わざわざ口出しするのは野暮ですが、個人的には支えている人たちが苦しんでいたら手を差し伸べるべきなんじゃないかと思います。福祉という分野においてこの点はすごく難しいですね。余計なお世話と言われればそれまでですから。
―今後、在住外国人をめぐりどのような問題が考えられますか?
私としては、人々がコミュニティに頼りすぎた結果、コミュニティ自体が強大になってしまうのではという懸念があります。心理学を研究する先生によると、人間は“分からない”ものに恐怖を感じるそうです。自国の言語や文化、伝統的な宗教を大切にしてコミュニティを作り、情報共有を行うことはとても大切です。一方で、コミュニティが閉鎖的になればなるほど、他国の人間からは中の様子が分からなくなり、近寄りづらくなってしまいます。日本という社会の中で生活するのであれば、みんなが何かしら共通基盤のようなものを持っておかないと社会は成り立たないし、排除される人々が出てくる危険性もあります。極端な例ですが、昔のドイツのように大きく社会を分断するような事態にもなりかねません。そこで、皆さんのご参考になるか分かりませんが、一つ、エピソードをご紹介します。私の親戚にハワイで生まれた人がいます。その親戚は、真珠湾攻撃の後、日本人だからという理由で近所に住んでいた白人からGo home, Jap!と言われました。でも、そのとき、近所に住んでいた別の白人が、「この日本人はいい人だからそんなことを言うな」と守ってくれたそうです。おそらく、当時のハワイでも、日本人コミュニティがあり、日本人はグループの中でしか生活していなかったのでしょう。親戚の場合は、たまたま仕事の関係でご近所の白人とお付き合いがあり、お互いに顔の見える関係性だったため、助けてもらえたのだと思います。うまく言葉で言えませんが、こういう関係性がどこの社会でも重要なんじゃないかなと。最近、SNSやメディアで外国人排斥などと騒がれていますが、いつも主語が大きいんですよ。「○○人は」と言っても、身近な○○人のことを知っていたら一概に善とか悪とか決められないですよね。今後、日本においても外国人はますます増えるにちがいない。まずは一人、誰でもいいから外国人と交流を持つというのが大切なのではないでしょうか。

―外国の方と交流する上で何か心構えは必要でしょうか?
なんでしょうね。外国人との関りが日常になりすぎて、余り意識する機会がないのですが、強いて挙げるなら「先入観を持たない」でしょうか。現代では、インターネットを始め、誰でも簡単にどんな情報も手に入れられる便利な時代になった半面、情報過多にもなりました。「○○人は××」といった偏った情報も、意識せずとも目に触れるような時代です。先ほどエピソードでも紹介しましたが、人間の個性は多種多様。集団主義的と言われる日本人で考えても、個人主義の人はたくさんいるし、ひとくくりにしたイメージがぴったり当てはまる人間は意外と少ないのかもしれません。日本人同士で見てもこれだけ個性があるのですから、当然、外国人にもあるわけです。日本人でも外国人でも一人の人間として捉えて、国籍や文化の違いを変に意識せずにフラットな目線で接すれば、良い関係性を築きやすくなるはずです。
●プロフィール

1966年生まれ、山口県出身。大学卒業後、1989年9月から二年間、台湾で日本語教師を務める。帰国後、会社員や非常勤講師として日本語を教える傍ら、京都龍谷大学大学院に入学し、2000年に修士課程修了。2005年から現在まで広島大学大学院において、在住外国人や海外在住日本人の福祉等について、幅広く調査・研究を行っている。
高校生の時は先生にばれないようにお菓子を回し食いするなど、明るくおちゃめな性格。また、自身が知らない分野に対するチャレンジ精神旺盛で、生け花や歌の教室に通う。専任講師となってからは学生との交流機会も増加し、現在は猫サークルの顧問も務める。7匹の猫と生活しながら里親探しに奮闘中。興味がある方はぜひ一度ご相談を。

