【広島人の履歴書】
File.14 隅田英治さん 株式会社SUMIDA 代表取締役 《後編》

【広島人の履歴書 】


広島と縁のある各界のオピニオンリーダー自らが語る今日までの足跡。知られざるエピソード満載の履歴書(プロフィール)には、現在を生きるヒントが隠されています。

公共工事頼みから民間工事へシフト
夢は故郷「今吉田」の地域活性化!

新庄高校で学生寮に入って以来、大学、社会人と親元を離れて暮らしたことから10年ぶりに故郷、豊平町(※2005年2月1日、大朝・芸北・千代田各町と合併して北広島町に移行)に帰って来ました。他所の釜の飯を食べて少しばかり自信がついた20代半ばのわたしの頭の中は、“隅田組を大きくしてやろう”という思いでいっぱいです。前の職場でご縁のできた現場監督や下請け業者を連れてきたこともあり、生まれ育った実家へ戻ってのんびりする間はありません。とにかく仕事を取って、取って、取りまくろうと、鼻息も荒く営業に回ることに。20代の頃は率先して現場に立っていましたが、「会社を大きくするためには、現場仕事よりも自分が営業に回って仕事を取らなくては」と感じていましたからね。

結果、仕事を抱えすぎて、にっちもさっちもいかなくなってしまいました。というのも次々と仕事を取っては注文書を交わしたものだから、下請けさんから「今月100万円足りません」、「200万円足りません」、「払えないので、なんとかしてください」といった申し出が続出したんです。それぞれの状況を聞いて、「払えないものは仕方ないなぁ。まあ、ええよ」とお金を貸すわたし。2年ほどで借用書が1300万円くらい溜まってしまいました。社長である父にほとんど相談せず、独断で進めてしまうのだから始末に負えません。家業に就いた早々、何ごとも勉強とはいえ、高い授業料になってしまいました。

公共工事頼みからの脱却

プライベートでは27歳の時に結婚しました。学生時代から硬派を気取っていたので恥ずかしながら女性とはあまり縁がなく、商売柄、早く身を固めるように周りから急かされていたある日のこと。妻は金融機関に勤めた後、町内の歯科医院の受付をしていたのですが、その歯科を訪れたわたしのカルテを見て「自分も誕生日が同じです」と話しかけられたのが出会いでした。狭い田舎なのでお互いの家の事情もよくわかるし、4歳年下で誕生日が同じという偶然もあり、とんとん拍子に話が進んだ次第です。ちなみに結婚後は、長女、次女、長男と3人の子宝に恵まれました。今では彼らも成人し、妻はわたしと一緒に会社を支えてくれています。

自分にも家族ができたし、30歳くらいからは父に代わって会社を仕切るようになっていくと、「会社を大きくする!」という男子としての夢を実現したい気持ちがますます強まりました。そして35歳を迎えた頃、当時は、まだウチの会社も公共工事が主体だったのですが、父から道路改良の公共工事が出たので他の業者さんと話し合いに行ってくるよう命じられました。その案件は、かつて祖父の代に隅田組が整備した道路の拡張工事なので「ウチにやらせてもらえないか」と提案するのが与えられた役目でしたが、わたしよりもひと回りくらい年長の業者さんから返ってきたのは「隅田君、この工事は今吉田じゃないんで。その言い分が通るのならば、これまで隅田組が手掛けた工事は全部あんたのところに仕事が回って、他の業者が出る幕がないじゃろうが」との厳しい言葉でした。

この時、わたしは「公共工事は、もうダメだ。ことあるごとにほかの業者とぶつかってしまう」と気付いたんです。うちの父は、申し出が却下されるのを見越した上で、わたしを話し合いの場に臨ませたようです。言うならば、父は自分の持っている「転ばぬ先の杖」の杖を貸してくれず、わたしに自分の身をもって負けることを覚えさせたんですよ。父は、その結果にわたしが何を感じて、どんな行動を起こすか、俯瞰するだけで何も言いません。全く異業種の警察官から土木工事業に飛び込んだので、人を指導したり、育てることについては、きっと、それだけの度量の広さがあったんでしょう。わたしならば、すぐに杖を貸してあげるし、「こう言えばよい」とか、よけいな口出しをするに違いありません(笑)。ともあれ、この経験が受注先を公共工事から民間工事にシフトさせる切っ掛けになりました。

民間工事へシフト

こうして創業以来、隅田組が主業務としてきた公共工事から脱却を図ろうと民間工事の受注に向けて種まきを開始したところ、はじめて取引させていただけたのが当時の西川化成株式会社(現・ダイキョーニシカワ株式会社)さんでした。最初に請け負ったのはウチの近所で購入された鶏舎の解体工事でしたが、これでつながりができると、ありがたいことに次は可部の本社工場の仕事も依頼されるようになったんです。工場内には、工事を必要とする仕事が沢山あってビックリしたのですが、それまでウチが得意としてきた土木よりも建築関連の工事が多いので初めは戸惑うことばかり。例えば、工場内に事務所を新設する依頼があったのですが、備品となるパーテーション(間仕切り)の意味を知らないくらいでしたからね。見積もりを出すために自分たちも不足している建築工事の知識を学んで実績を重ねていくと、次から次へと付随する工事の依頼が増えていきました。

西川化成さんの仕事を皮切りに民間工事へのシフトを加速する中、1997年(平成9年)に会社を有限会社から株式会社に改組し、1999年には父からバトンを受けてわたしが40歳の時に社長に就任。社員にわたしの高校時代の親友も加わり、会社の基盤強化を進める傍ら、事業拡大に不可欠な社外の人間関係作りにも意欲的に取り組みました。そして、40代半ばを迎えた頃、新たな営業先として着目したのが、山県郡に千代田工場を有する広島アルミニウム工業株式会社さんです。新規訪問するにあたり、「何か良いルートがないか?」と探していたところ、わたしがお世話になっていた同社と関わりの深い方のバックアップでご縁をいただくことができました。それからは現在に至るまで取引させてもらっています。“人を大事にしないと友だちができない”ことを味わった子供の頃の教訓どおり、人とのつながりの大切さを痛感しましたね。

ところで、公共工事から民間工事にシフトしたのには、もうひとつ大きな理由がありました。会社を経営する上での資金繰りの問題です。公共工事の場合、新年度を迎える4月に工事予算が発表され設計が開始、8月か9月に入札があり、それから発注となるので、運よく業者に選定されたとしても、公共工事頼みでは4月から8月までは仕事がありません。その間の会社の収益や人件費、下請けさんを確保することを考慮すると、特に縛りのない民間の仕事を受注した方が良いのは明らかですからね。方向転換に合わせ、2006年に事務所を現在の所在地へ移転、2008年には「株式会社SUMIDA」に社名も変更、自動車販売の好景気を背景にマツダ関連の西川化成さんや広島アルミニウム工業さんなど、地元大手企業の民間工事を請け負えるようになり、我が社の台所も順風満帆だったかというと、実はそうでもありません。

連日、深夜まで工事の見積もりの作成に追われるなど、民間工事への移行が順調に進んでいたものの、相手先が民間だけに何かあれば、いつ倒産してもおかしくないんですよ。景気が良かった時代なので下請け業者の設備投資の保証人になったり、島根県で工事を請け負った会社が計画倒産したり、損害をこうむったこともよくあります。特に堪えたのは、わたしが40代後半に差し掛かった頃、3年連続で受注先の倒産劇に見舞われた時ですね。1年目は可部の中堅建設会社、2年目は親戚の建設会社、3年目は1億4~5千万円で幼稚園の新築工事を引き受けた際、施主から使ってくれと依頼のあった業者が資金難で倒産したんです。この時は、さすがにウチの会社も倒産寸前に陥りましたが、わたし自身は「運が悪い」とか「誰かのせいで」とか、思ったことは一度もなかった。苦境に立たされたのは「神様、仏様が自分に試練を与えたにちがいない。それならば受けて立たんといけんのう」と逆に発奮していたくらいです。

なぜなら、わたしには一生かけて実現したい夢があります。「1億円、2億円くらいのことで自分の夢が潰されては困る。ここでへこたれるわけにいかんわい!」と思うほど、成し遂げたい大きな夢。それは、故郷である旧豊平町、今吉田地区の復興です。年々、過疎化が進むこの地域に、わたしが子供の頃は、百貨店、食料品店、自転車屋、電気屋、美容院、理容院、衣料品店、カメラ屋、化粧品店、食堂、パチンコ屋などが賑やかに軒を並べる商店街もありましたが、今ではすっかり寂れてしまい、一軒も残っていません。自分が生まれ育ち、家業の商いを続けているこの地に昔のような活気を取り戻したいんですよ。「何とかしないといけない!」という地域の復興にかける熱い思いが逆境を迎えた時のエネルギーになっていました。

新規事業加え、業容拡大へ

とはいうものの、夢を実現するためには、本業の基盤をちょっとやそっとでは揺るがないようにしておくのが先決です。新規事業にも力を入れようと54歳を迎えた2013年からは“太陽光発電設備設置工事”をスタートしました。2011年3月11日に東日本大震災が発生して脱原発に伴う再生エネルギーへの移行の機運が高まっており、ちょうど太陽光発電事業を推進する上場企業とのご縁をいただき、お誘いを受けたのが切っ掛けです。その頃は、土木工事が動かなくなっていたこともあり、当初は「大手さんが舵を取ってくれるのなら間違いないし、ウチはコバンザメでいいかな」くらいの気分で、下請けとして設備を設置する土地探しから申請業務に至るまで、数をこなして事業をマスターすることに。

慣れてくると、自社で設計から施工、点検・メンテナンスなどの管理までの工程を一元化する元請けに移行しようと、必要な特定建設業や電気工事業の許可を取得して一級電気施工管理技士など、有資格者を社員に採用しました。以後、全国的な太陽光発電の普及を追い風に事業を加速したところ、設備の設置場所が広島・山口・兵庫・三重県に広がり、いつの間にか計202ヵ所に設置できたんです。この事業の良いところは一度、設備を設置すると継続的に収益が見込めること。言うなれば、202人の何も文句も言わず、休みなく働いて稼いでくれる社員を抱えたようなものです。おかげさまで会社の売上げの方も大きく上伸し、「会社を大きくしたい」という家業に就いた当初のわたしの目標もひとまずクリアーすることができました。

一方、太陽光発電事業への参入が呼び水となって、2017年から事業に加えたのが“防草シートの開発及び製造”です。防草シートは、自然に恵まれ、田畑の多い今吉田で工事に携わる者として、昔から扱いたいと考えていた資材だったのですが、太陽光発電設備を設置する場所の除草や草刈りなど、手間のかかる作業を軽減することが事業化に踏み切る契機になりました。“高機能なものは価格が高く、安価なものは性能がいまひとつ”といったユーザーの不満を解消するため、企画から製造・販売・施工まで自社グループで一元化、コストを削減して高品質な製品を低価格で提供すべく、2018年には中国江蘇省常州市に合弁会社を設立。耐久性、施工性、経済性に優れた防草シートとして開発したのが「はるん田”」です。SUMIDAオリジナル商品として2018年に商標登録、2019年にNETIS=国土交通省 新技術情報提供サービス=に登録、2019年に広島県長寿命化技術活用制度に登録し、太陽光発電事業とセットで東京ビッグサイトや幕張メッセ、インテックス大阪などでの展示会にも複数回出展するなど、全国に向けて普及を図っています。

夢への挑戦始動!

従来の太陽光発電や建設資材の販売などの新事業も加わり、本業も軌道に乗ってきたことから、いよいよ自分の夢である今吉田地区の活性化に向けて1歩を踏み出す準備が整いました。どんどん寂れていく地域に賑わいを取り戻すためには、「定住」と「新規雇用」が大命題となりそうです。話は前後しますが、例えば昨年(2023年)1年間に北広島エリアで生まれた赤ちゃんは千代田で80人、大朝と芸北が5人とか8人で、わたしたちが暮らす豊平に至っては、たった2人でした。都会以上に少子高齢化が進行する中、次世代にバトンを渡そうにも働く場所、すなわち雇用先がないと人は集まりませんし、若い人からすれば、低賃金の農業では魅力がありませんからね。“行きたい・住みたい・帰ってきたい”と思う今吉田づくりを目指して何から手を付けようかと思案していた矢先、うってつけの話がありました。ウチの会社からほど近い場所で工業団地を建設する計画があったのですが、リーマンショックや市町村合併の影響で断念され、20年以上そのままになっており、これを糸口に具体的な活動をスタートしようと考えたんです。

工業団地の現状を県に確かめたところ、個人や一企業では話が進展しないことから、まずは窓口となる組織を作ることに。こうして2022年8月に発足したのが地元の自治会関係者や東京の官僚経験者などと、わたしを含めて有志9人で立ち上げた「一般社団法人北広島デジタル田園開発機構」です。法人が掲げるテーマは「地域創生・インバウンド活性化・スマート農業~里山とデジタルを融合して地域の活性化を目指します~」。2023年3月には、この法人が旧豊平地区工業団地の開発予定地を取得し、同年11月に今吉田自治会、北広島町と三者で「今吉田地区活性化事業の実施に関する基本協定」を締結し、今後はデジタル田園都市の整備などを計画しています。現在、整備の素案に上がっているのは次の通りです。

■働く…サテライト、テレワーク、リモートカレッジ、サイエンスパーク、eスポーツセンター、研修・保養施設
■農業…デジタル野菜工場、シェアリング農業、AI・ドローン、太陽光・バイオマス
■産業…バイオマス発電(熱交換・水素活用)、R&Dセンター、人材育成
■ヘルスケア…遠隔診療、訪問診療、健康増進、デジタル介護・見守り
■憩い・観光…公園環境、イベント広場、森林アスレチック、体験農場、宿泊(B&B)、キャンプ場、インバウンド、アウトドア
■里山リゾート…何かをしても良し!しなくても楽しい!
■地域共生交流…6次産業の創出(薬草、プロテインなど)、地域交流拠点

ちなみに、取り組み可能な事業については工業団地周辺を含め、賑わいと魅力のある今吉田が実現できる1歩として少しずつ開始しています。農産品では、2022年に開かれた「第一回全国お米グランプリ」でわたしが個人で出品して全国363店の出品の中から準グランプリを獲得し、2023年の開催では地元生産者4人が銀賞に輝いた「源流米 今吉田」をブランド米として販売開始したのを皮切りに、地域の希少な産物である“香茸”(こうだけ)や子持ち鮎、松茸、地鶏のブランド化にも乗り出したところです。このほか、インバウンドや観光誘致に向けて、地域全体に宿泊して滞留できる「村ごとホテル」構想や地元の清流に生息するウナギのブランド化など、法人と北広島町、今吉田自治会に加え、産学官の連携で新しいアイデアも続々生まれているので、わたしの夢も膨らむ一方、新しい今吉田にご期待ください!

人の喜びを糧に今日まで

改めて、これまでの足跡を振り返ってみると、「あんなことがあった」、「あの時はこうだった」と、いろいろ思い出しますね。もともと横着なタイプのわたしが「会社を大きくしたい」、「寂れゆく今吉田を活性化したい」との思いだけで、今日までがむしゃらに突き進んで来たわけですが、その根底にあったのは“人に喜んでもらえることをやりたい”でした。

従って、我が社では■顧客満足…顧客と共に成長する企業となる、■社員満足…社員の夢を叶える企業となる、■地域満足…地域と共に栄える企業となる、を経営方針に掲げ、「SUMIDA is 実務企業‼」をキャッチフレーズにしています。これを実践するために自分が常に心掛けているのが、人からのニーズに「できない」と言わないことでした。“頼まれごとは、試されごと”と思うようにして、どんな難しい要望に対してもノーとは言わず、「承知しました」と応じてきたので、今があるような気がします。為せば成る、為さねば成らぬ何事も―まずは達成すべき目標を定めて、わき目も振らずに挑戦することが大事ではないでしょうか。目前に迫った会社の100周年、本格的に動き始めた今吉田地区の活性化と、わたしにはまだまだやるべき務めも多く、立ち止まるわけにはいきません。果たして次は何にチャレンジすることになるのやら?隅田英治の履歴書が完成するのは当分先になりそうです。

《隅田英治(すみだ えいじ)PROFILE》

株式会社SUMIDA代表取締役。1959年(昭和34年)12月14日、山県郡北広島町今吉田(旧豊平町)生まれ。学校法人広島県新庄学園・広島新庄高等学校卒業後、大阪商業大学商経学部経済学科へ進学。修成建設専門学校中退、伸和産業株式会社(呉市)を経て、25歳で建築・土木工事・設計・施工を手掛ける家業(有限会社隅田組→1997年株式会社隅田組に組織変更→2008年現社名に変更)に就く。従来、主体としてきた公共工事から民間工事へシフトしたほか、太陽光発電工事や建設資材販売(防草シート「はるん田゛®」)など、新機軸を打ち出し、業容拡大を果たす。2022年8月、有志9人で「一般社団法人北広島デジタル田園開発機構」を発足、“里山とデジタルを融合して今吉田地域の活性化を目指す〟を謳って、地域創生・インバウンド活性化・スマート農業の整備などを推進する活動に注力している。座右の銘は「為せば成る、為さねば成らぬ何事も」。

【会社概要】
会社名 株式会社SUMIDA
代表者 隅田 英治
所在地 広島県山県郡北広島町今吉田1527 番地
TEL (代表)0826-84-1241 FAX 0826-84-1011
E-mail info@co-sumida.jp

創 業 1927年(昭和2年)
設 立 1974年10月(昭和49年)
資本金 2,000万円

事業内容
建築・土木工事設計施工 太陽光発電工事設計施工
太陽光発電設備メンテナンス事業 電気工事設計施工
建設資材販売(太陽光杭架台、防草シート『はるん田”』等)
従業員数 20人(パート・アルバイト含む)

許可・免許番号
特定建設業 広島県知事許可(特-2)第1955号
電気工事業 広島県知事許可(特-2)第1955号
一般建設業 広島県知事許可(般-2)第1955号
一級建築士事務所 広島県知事登録 20(1)第5104号

在籍有資格者
一級土木施工管理技士 一級電気施工管理技士 
一級建築施工管理技士 一級建築士 宅地建物取引士 

関連会社
株式会社Zin(2020年4月 ㈱ぐりーんさぽーと広島より社名変更)
CHANGZHOU SUMIDA NEW ENERGY FACILITIES CO .,LTD (中国江蘇省常州市)

〇ホームページ https://www.co-sumida.jp/
〇インスタグラム https://www.instagram.com/sumida.1527/
〇はるん田゛®ホームページ https://harun-da.com/

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