【広島人の履歴書】
File.13 兼田貴代さん 株式会社 櫟 代表取締役 《前編》

【広島人の履歴書 】


広島と縁のある各界のオピニオンリーダー自らが語る今日までの足跡。知られざるエピソード満載の履歴書(プロフィール)には、現在を生きるヒントが隠されています。

寿司屋や飲食店での修業を経て、
広島初のワッフル専門店を開業!

1994年(平成6年)2月14日のバレンタインデー、JR西広島駅に続く路地の一角に小さなワッフル専門店「櫟 kunugi」を開業。早いもので今年(2024年)30周年を迎えることができました。幼い頃から根気強いことだけが取り柄のわたしが調理師学校を卒業後、お寿司屋さんなどの飲食店で経験を積み、縁あってスイーツの世界へ。97万円の貯金をはたいて創業した広島初のワッフル専門店は、その後、故郷広島と縁の深いバームクーヘンを看板商品に加えたほか、法人化や組織の拡大も果たし、なんとか地元のみなさまに親しまれる店になりました。

一方、この30年の間に私生活では離婚を経てシングルマザーとなり、3人の息子の子育てに奮闘してきましたが、仕事と子育てに追われるわたしをずっと支えてくれた両親も死去するなど、本当に紆余曲折がありましたね。現在、成人した息子たちへの世代交代を進めながら、事業の海外展開に駒を進める一方、「ミセスオブザイヤー日本大会&世界大会」や「バージリア世界大会Mrs Asia USA」への挑戦など、1人の女性としても輝くことを願う自分がこれまでどんな生き方をしてきたのか?今日までの足跡を辿ってみようと思います。

対照的な姉妹

わたしは1967年(昭和42年)5月23日生まれです。家族は両親と4歳違いの姉がひとり。両親は広島市中区幟町で写真店を皮切りに「兼田商業」という家具などの設計やホテルのアメニティーのデザインなど多角事業を手掛ける会社を営んでいました。2人姉妹の場合、子供の頃は何かにつけて姉と比べられるので「お姉ちゃんには負けたくない」という気持ちが強かったようです。ただ、おませで口も達者、機転が利いて要領の良い姉とは対照的に、わたしはお転婆だけど、人見知りで要領が悪いから馬鹿正直になんでも根気強くやってしまいます。例えば、近くの山へ一緒にタケノコ堀りに出かけても姉は初めから鍬を使って次から次へ収穫するのに、わたしはそのあたりに落ちていた石で掘っているのでなかなか追いつけないんです。何をやらせても如才なく立ち回り、いつも褒められる姉に対し、わたしは一生懸命取り組むのだけれど、時間がかかるし、失敗してばかり。姉妹でも周りの評価が明暗くっきり分かれることから、いつも姉を羨ましく思っていました。幼稚園は聖母幼稚園、小学校は広島市立幟町小学校へ進みましたが、両親が共働きのため、夜はいつも姉と2人きり。淋しい思いをしていた影響もあってか、身体が弱く、よくお腹が痛くなっていたのを覚えています。

やんちゃな学生時代

広島市立幟町中学校に進学すると、幼い頃から自分を苦しめてきた身体の弱さを改善しようと陸上部で長距離を走ったり、バスケットボール部の応援に駆り出されてボールを追いかけたり、スポーツに励んでいました。勉強は嫌いでしたが、高校受験に際し、動物(とりわけ牛や馬)が大好きだったので畜産科のある広島県立西条農業高等学校を目指す気でいたところ…。実家は市街地で農家じゃないし、お腹が痛くなることが多かったので広島市内から東広島への通学も大変そう、何よりわたしの成績では獣医になれるとも思えないという理由で両親から反対されました。結局、広島県立安芸高等学校(※2024年3月末廃校)に進学したんです。

自分で認めるのも変ですが、高校時代は、当時付き合っていた彼氏が札付きの不良‼だったため、朝学校に登校しても校庭前の自転車置き場に鎮座する彼氏を放ったらかして1人で教室に向かうわけにもいかず、一緒に授業をさぼってみたり、とても真面目とは言えない学生でした。ただ、幼い頃から姉と比較されて窮屈な思いをしてきた反動なのか?見栄っ張りで自己主張を貫きたいわたしです。不良の代名詞であるタバコやシンナーの類には嫌悪感が強く、絶対にやりませんでした。それにしても当時、流行っていたヤンキー漫画さながらの高校生活を送って、先生にも心配ばかりかけていたわたしが、のちに卒業生の経営者として母校の後輩たちに2回も講演を依頼される立場になるなんて人生何が起きるか全くわかりませんね⁉

若気の至り、そのものだった高校3年間はあっという間に過ぎ、進路を決める時期がやってきました。その一方、我が家では一大事が勃発、父と母が離婚することになったんです。様々な事情を踏まえて下した両親の決断ですが、娘たちには2人が争う姿をみせないようにしていたため、離婚を知って驚くばかり。母からは「これからのことは何も心配せずに、あなたはお姉ちゃんとは違う自分のやりたい道に進みなさい」と告げられました。母の後押しを受け、わたしが進路に選んだのは高校受験で諦めた畜産関係の次に興味のあった料理の世界です。まずは、きちんと基礎の技術を身に付けようと、大阪の辻学園日本調理師専門学校に入学することになりました。

大阪で料理修業スタート

専門学校に関しては、母が「日本一の学校で学んで、あなたが選んだ道で誇りを持って生きていくように!」と、雀荘の経営や着物とペン習字の先生などをしながら、なけなしのお金をはたいて費用を工面してくれたので、生半可な気持ちで授業や実習に臨むわけにはいきません。高校時代は、遊びにかまけて学校に行かないことも少なくなかったわたしが在学中は、なんと無遅刻、無欠勤。とにかく一生懸命勉強し、卒業式には“皆勤賞”として学校に表彰され、ペティナイフを記念品にいただきました。そして卒業後、母の着物の呉服屋さんの紹介で就職したのが大阪三ッ寺筋の寿司屋「祇園寿司」です。今でこそ女性の調理人も数多く活躍する和食の世界ですが、当時はまだ「おんなは厨房に入るべからず!」がまかり通っていた時代で、女性で入社するのはわたしが第1号でした。全寮制の職場ながら、わたしは男子寮の近くのレディースワンルームマンションで1人暮らしが始まりました。こうして飲食業の現場へ飛び込んだわけですが…。

寿司職人の修業は、昼夜逆転、同世代の友人と連絡を取る余力もないくらい、くたくたの毎日で、それはもう厳しかったですよ。まず、その日の仕込みを終えて夕方5時、6時から開店し、夜中の3時くらいまで営業。ヘトヘトにくたびれながら片付けして店を閉め、ひと息つく間もなく朝5時頃からまだ暗い近くの公園で7時半頃まで寮生全員で野球をするのに参加しなくてはいけないんです。そのまま8時に帰宅して午後1時頃まで泥のように睡眠、2時には出勤するのがルーティンという早朝から深夜までやることづくめのハードな日々でした。そういえば、ずいぶん後に知人から聞いたこの頃のエピソードがひとつ。母と離婚しても娘のことが心配な父がある時、大阪までわたしの様子を見に来たらしいんです。店の裏の路地で「貴代の勤め先はこのあたりかな?」と探していると、調理着を身に纏った、まだ見習いのわたしが大きなゴミ袋を抱えて出てきたので電柱の陰に隠れて見守ることに。白い長靴の膝をまくって額の汗をぬぐいながらゴミを出す娘の姿を見ると、つい涙が出てきて声をかけることができず、そのまま踵を返したそうです。広島から遠く離れた大阪の街中で下働きする娘が切なかったのでしょう。離婚しても家族は家族、父の親心だったのかな。

さて、この業界に入る時にわたしには「25歳で自分の店が持ちたい」という夢がありました。「早く魚を触りたい」「早く厨房に入りたい」と願うものの、何かとしきたりの多い世界では新米の自分の要望が聞き入れられるはずもなく、寿司屋が嫌で、嫌で仕方がなく、辞めたくなっていた時に、フレンチレストランの仕事を紹介していただいたんです。なかなか厨房に立たせてもらえなかった寿司屋に対して、フレンチレストランでは、いきなりランチを任せてもらえたし、カウンターで同伴客のお相手が主体だった寿司屋と違って、ホールで老若男女を問わず、幅広い層のお客さまと接客ができるレストランの仕事は楽しくてやりがいを感じました。ただ、ひとつ問題だったのが、給料が安いこと。なんとかしなければと、休日はイベントコンパニオンや、夜の空いた時間はスナックなどでのアルバイトを掛け持ちするようになりました。従って、寿司屋時代も睡眠時間は少なかったけれど、この頃も同じ状況になってしまい、眠気覚ましのアンプル剤を飲んで毎日頑張ったものです。

デザートに目覚める

フレンチレストランに勤めながら、アルバイトにも精を出す忙しい日々が続く中、心斎橋に「デザートサロン」というデザート専門店があることを知りました。レストランでデザートに携わるようになっていたものの、バブル絶頂期だった当時、そのお店はセレブが集う高級店で、どのデザートも「わー、キレイ‼」と感動するほど美しかったんです。田舎者のわたしからすれば、何から何まで衝撃的で、すぐにでも「このお店で働きたい」と思ったのですが、求人募集はしていないとのこと。無理を承知で「無給でも良いから働かせてください!」とお願いすると、熱意が通じたのか?了承していただけたんですよ。働き始めると、パティシエシェフの見たこともないような繊細かつ見事な技術を目の当たりにして毎日が驚きと感動の連続でした。

店にも馴染んで、わたしに進む道を開いてくれた母にこそ「この素晴らしいデザートを食べて欲しい」と頭に浮かべていたところ、ちょうど母も8000円格安バスツアーの懸賞旅行が当たって大阪を訪れることになっていたらしいんです。ところが、その店の料金は一皿のデザートでさえ5000円以上する高級店なので、格安バスツアーを利用して訪れた母が一緒について来てもらった友人に気軽にご馳走できるお店ではありません。娘のわたしが働く店でもあり、外から写真を撮って、何も声をかけずに帰路に就いた、と後から届いた手紙を読んで知りました。誰よりも一番食べさせたい人を入店させられなかったことが今でも悔やまれます。この時、自分の中に「値段が高くなくても美味しいスイーツを提供できないだろうか?」という気持ちが生まれ、それからは、「ホワイト製菓」という伊丹空港近くの庶民的なケーキを量産する工場でも働くようになりました。こうして大阪で様々な経験を積み、夢に掲げてきた「25歳で自分の店を持ちたい」という年齢を迎えると、いよいよ実現に向けて踏み出そうという思いが高まってきたんです。

故郷、広島で起業!

ひとまず個人事業として起業するにあたり、自分がやりたい店は、やはりスイーツ専門店ですが、「さて、何を扱うべきか?」。寿司屋、フレンチレストラン、スイーツ専門店で身に付けた技術を活かせるスイーツを考えてみて辿り着いたのが、家族や友人など身近な人に喜んでもらえる安くて美味しい手のひらサイズのワッフルでした。ヒントになったのは、かつて寿司屋で修業したシャリとネタのバリエーション。手のひらサイズにカットしたふわふわの生地でクリームやフルーツをサンドすれば、見た目も鮮やかで楽しいし、種類も豊富にできますからね。様々な季節の味、そして遊び心を詰め込んだ誰もが気軽に食べれるスイーツの条件を満たすには「ワッフルしかない!」と考えた次第です。店の名前は既に「櫟(くぬぎ)」と決めていました。“木”へんに“楽”と書いて、気楽に入れる店にしたいという思いを込めています。

イメージが固まると、1993年12月、暮れも押し迫る頃に大阪を離れ、故郷、広島へ。実は25歳の時、イベントコンパニオン時代に知り合った男性と結婚していたので、夫婦で広島へ帰って準備を進めることに。手元には、子供の頃から貯めていたお年玉や大阪での修業時代の蓄えをかき集めた97万円の資金しかありませんでしたが、まずは店舗の場所探しからスタートです。運よくJR西広島駅にほど近い西区己斐本町の路地の一角に喫茶店跡の7坪ほどの居抜き物件を見つけたので1階にショーケースを置き、2階を製造工場とすることに。年末年始を返上して、大急ぎで開店準備を進め、1994年2月14日のバレンタインデーに念願の自分の店をオープンすることができました。当時の広島では、櫟のようなワッフルを看板商品とするお店はまだ珍しく、いざ本番を迎えると、果たして地域の方に受け入れてもらえるのだろうか?と少し緊張しましたが、わたしの心の中は新しい門出に向けて不安よりも期待でいっぱい。いよいよ今日に続く、長い旅の始まりです。《後編に続く》

《兼田貴代(かねだ きよ)PROFILE》

株式会社櫟(くぬぎ)代表取締役・オーナーパティシエール。1967年(昭和42年)5月23日、広島市生まれ。広島県立安芸高等学校卒業後、辻調理師専門学校で調理を学び、大阪の和食・洋食・デザート店などで修業。1994年2月、広島でワッフル専門店「櫟Kunugi」を創業(※1997年6月有限会社櫟に、2014年7月、株式会社櫟に組織変更)。寿司屋のシャリとネタのバリエーションをヒントに独自開発した手のひらサイズのワッフル、広島が発祥の地であるバームクーヘンなどを看板商品に広島市市内で4店舗(※2024年7月現在)展開中。2023年9月、ウズベキスタンのタシケント市内中心部にカフェ「Donguri (どんぐり)」をオープンするなど海外進出にも意欲。

シングルマザーとして3人の息子を育てながら、2015年には広島大学経済学部に社会人入学し2021年卒業。「ミセスオブザイヤー2021広島 ファイナリスト」グランプリ、「2022年ミセスオブザイヤー世界大会」準グランプリ&ベストコスチューム賞受賞。
「2023 年バージリア世界大会ミセス アジア USA」ユニバース賞&ベストインターナショナルコスチューム賞受賞。趣味は、オートバイ(ハーレーダビッドソン)ツーリングほかアウトドア活動、DIY他多数。座右の銘は「昨日から学び、今日を生き、明日へ希望を抱く」

【会社概要】
会社名  株式会社 櫟
所在地  広島県広島市西区己斐東1丁目2-21
TEL 082–272–0001 FAX 082–272–0300
事業内容 洋菓子(ワッフル・バームクーヘン・焼菓子等)の製造及び販売

店 舗  
■太田川本店
広島市西区己斐東1丁目2-21 TEL 082–272–0001
■西広島己斐駅前店
広島市西区己斐本町1丁目12-7 TEL 082–271–0434
■そごう広島店
広島市中区基町6-27広島そごうB1F TEL 082–512–7814
■JR広島駅ekie店
広島市南区松原町1-2 2Fおみやげ館 TEL 082-568-1001
■広島空港店
三原市本郷町善入寺64-31 広島空港2F TEL 050-3561-0777
■ウズベキスタン「Donguri (どんぐり)」
г. Ташкент, ул. С.Азимова, дом 44 TEL +998 95 954 20 77

〇ホームページ https://company.kunugi1994.com/index.html
〇Facebook https://www.facebook.com/kunugi.japan/  
〇Instagram https://www.instagram.com/kunugi_cafe/

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