【広島人の履歴書】
File.12 新 祐哉さん 株式会社NEUTRAL 代表取締役 《後編》

【広島人の履歴書 】


広島と縁のある各界のオピニオンリーダー自らが語る今日までの足跡。知られざるエピソード満載の履歴書(プロフィール)には、現在を生きるヒントが隠されています。

不用品買取の「ニュートラル」を創業。
顧客満足を追求、買取実績1万件突破!

高卒後、3年間の調理師修業を経て、心機一転、リサイクル訪問買取業に転身しました―といえば、聞こえは良いのですが、入社1日目から何の研修もなく、いきなり訪問営業の現場に駆り出されるという波乱の幕開けでした。ズブの素人が見ず知らずの家を訪問して、人と喋るのが好きだから話を聞いてもらえるなんて甘い業界であるはずもなく、入社して半月経っても売り上げはゼロで、営業成績はビリでした。負けず嫌いの自分としては、その状況がどうにも悔しくてたまりません。昔から壁に当たった時は、自らを追い込んで物事に取り組むタイプなので、所長に「残りの半月で売り上げがゼロだったら給料はいりません」と直談判したんです。職務規定もあるため、「そんなことは出来ないよ」とあきれ顔の所長に「とにかく目標達成に向け、死に物狂いで頑張ります」と言い残して、すぐに営業に飛び出したわけですが…。

訪問買取業を学ぶ

結局、なんとか残り半月で結果を出すことができました。何はさておき、がむしゃらに訪問を続けたところ、わたしが初めて買取したのは風呂桶(浴槽)です。当時、この会社は、買取先を訪問開拓する“アポインター” と呼ばれる営業担当から不用品を品定めする“クローザー”こと、査定員につないで買取額を決定し、売り上げを立てるシステムでした。営業担当のわたしとしては、まずは売りたいものがあるお宅を開拓すること、言うなれば入口を見つけて査定員を呼ぶのが与えられた役割です。お客さまの家の中に入れていただければ、査定員が他にも買取できる品を発掘することもできますからね。ひとたび、家の中に入れば、「何か売ってくれるまで帰りませんよ」といった強引な営業がまかり通る時代でしたし、半月で結果を出す自分に課した目標を達成すると、少し自信がついたこともあり、やる気が湧いてきたんです。

あと、給料面の好待遇もわたしのやる気に火を点けました。手取り10万円余りの低賃金が悩みの種だった調理の現場と違い、この会社の場合、営業マンは基本給21万円に売り上げの10%の出来高が加わるため、少し頑張ればすぐに前職の倍以上の給料が稼げたんですよ。考えてみると18歳で飛び込んだ調理の世界では、心身共に疲弊するほどの過酷な労働環境や、理不尽がまかり通る徹底した上下関係、そして低賃金と、楽しいことよりも辛いことの方が間違いなく多かった。けれども、それらを経験したからこそ、現在までやって来られたのだと思います。新しい職場でも厳しい調理師修業で身に付けたことは、意外に役立ったんですよ。

例えば、上下関係にうるさく、先輩を敬うのが不文律の料理人の世界では兄弟子が厨房にいる限り、後輩が先に帰るなんて間違ってもできません。それを叩き込まれたわたしとしては、所長が毎日一人で最後まで営業所に残っておられるので、上司がいるのに新人が先に帰宅するわけにはいかないと、先輩たちが帰った後も机について仕事していたんです。所長と2人で最後まで残る日々が続くと、いつしか所長から仕事を回してもらえたり、営業のコツなど、色々教えてもらえるようになりました。その甲斐もあってか、わたしは営業成績も上がり、2年ほど経った頃、組織内でご自身の昇格が決まった所長から「営業所のメンバーで僕の代理ができるのは新君だけなので後任に推挙しようと思う。所長をやってみないか」告げられたんです。迷わず「やります」と応え、入社2年目、23歳で所長になってしまいました。40代や50代の先輩もいたので正直なところ、やりにくいこともありましたね。

加えて、そのタイミングで特定商取引法の改正により、飛び込み営業が禁止され、訪問営業への締め付けがきびしくなったことから、わたしたちの会社の営業スタイルもテレアポ(テレフォンアポインター)セールスが主流になっていきました。昔ながらの足で稼ぐ営業が身体に染み込んだスタッフには対応が難しく、辞めていく人が増え始めたんです。前所長の指名もあって後任を引き受けたけれど、わたしはまだ23歳の若造です。辞めた人の欠員補充はするものの、言葉使いひとつにしても然り、スタッフをまとめたり、人の上に立つ器ではありません。スタッフがついてこないことに大いに悩み、仲の良い先輩に相談したり、様々なことを学ぶ良い機会となりました。

しかし、その後もテレアポに営業スタイルが変化したのが響いて営業所自体の売り上げは下降し、赤字が続いたため、本社から同様に売り上げが下った広島営業所とどちらか1拠点だけを残すことを告げられたんです。最終的には市場規模を考慮し、広島営業所を残すことが決まり、志願者は広島へ移籍することになりました。ところが、住み慣れた愛媛から広島への転勤を希望する者はおらず、結局、わたし1人が赴くことに。この頃、既に結婚していたため、初めて暮らす広島での仕事や生活に慣れるまではひとまず、妻と子供を愛媛に残し、単身赴任を決めた次第です。

広島に転勤、新たな課題

広島市の都心部、幟町にあった広島営業所は所長以下、20人弱の陣容でした。営業部長の肩書で着任したわたしは、それまで縁もゆかりもなかった広島の街を営業に回って感じた印象は「思っていたよりも人が優しい」ということ。当時の所長に「広島のお客さまは話をよく聞いてくれるので、すごく買取しやすいですね」と言っていましたからね。ただ、しばらく活動していくと、商いがやりやすい市場なのに買取から査定への連携が悪く、この営業所では買取の入口となるアポインターのスタッフが育ってないことに気が付いたんです。わたしは、愛媛営業所時代に訪問営業(アポインター)で知識や経験を積んで、既に査定員(クローザー)となっていましたが、営業面の強化をするのが広島営業所の最優先課題だと思い、とりあえず一度、査定員の立場を降りて、人材育成に力を注ぐことになりました。

1年後には家族を愛媛から呼び寄せ、新しい環境にも慣れてくると、広島には社外に友人や知人がいないので、地域に溶け込んでビジネス交流や情報交換できる飲み友達を作ろうと、広島商工会議所青年部(広島YEG)に入会したんですよ。20代半ばでこの会に入会したのを機に、尊敬できる地元経営者の先輩と出会い、仕事のことや自分の抱える悩みを相談したり、的確なアドバイスをいただけるようになりました。飲み会などの交流を通じて親しくなった先輩たちから“ビジネスに対する基礎を教わった”といっても過言ではありません。

一方、営業所では、引き続き人材育成に励んでいましたが、中間管理職的な立場になったことから、それまで営業の現場で味わった苦労とは、また違う上司と部下との間に挟まれてのしんどさを痛感することに。うまく組織が機能していないこともあり、業績も苦戦する中、自分としては経営陣に突き付けられるキツイ要求から部下を守らねばいけないし、次から次へと悩みがつきません。いつもお世話になる広島YEGの先輩に相談したところ「思うようにいかず、あれこれ悩むくらいなら会社を出て自分でやった方がいいんじゃないか」との後押しを受け、わたし自身も独立に向けて気持ちが傾き始めました。この会社に居続けても将来は約束されないし、現場で培った営業力だけには自信があるのでイチかバチか挑戦してみたくなったんです。

独立して個人事業主へ

気持ちが固まると、すぐに独立に向けての準備を進め、21歳から愛媛と広島で9年間勤めてリサイクル訪問買取を身に付けた会社に別れを告げました。当時のスケジュールを振り返ってみると2019年11月30日に前職を退社、12月1日から1ヵ月間ほど同業の会社で勉強させていただき、2020年1月に「ニュートラル」の屋号で個人事業をスタートしています。常に動き続けないと気が済まない性格が如実に表れていますね。独立にあたって屋号に掲げたニュートラルには、仕事をする上で英語の“neutral”の意味である“中立的”に引っ掛けて「損得勘定ではなく、常にお客さんの気持ちを考えて中立的な立場でいたい」という願いと、「わたしの苗字の“新(あたらし)”に通じる new(ニュー)を入れたい」という思いを込めました。

こうして西区井口に小さな事務所を構えて船出した不用品買取屋ニュートラルのスタッフは前の会社からついてきてくれた3人のメンバーでした。開業するにあたり、掲げたキャッチフレーズは「何でも買い取ります!」。というのも前の会社で買い取るのは価値のある金や時計、ブランド品ばかりで、収益につながらない家具とか家電は取り扱わなかったんですよ。実は、そのやり方に疑問を感じたことも独立に走った理由のひとつなんです。わたしが査定や買取に伺うと高齢のお客さまが玄関に不用になった家具などを積んでおられることも多く、お年寄りなのに重い家具を運んで準備されていた気持ちをくんで一緒に引き取らせていただくと、営業所に帰ったとたん、上司から「何でゴミを持って帰るんだ!」と大目玉を食らいましたからね。自分としてはお客さまに満足していただければ、信頼関係も構築できるし、入口ができれば、その先に収益性のある買取が生まれると考えていたので、どうしても引き取れないもの以外は買い取るべきでは、とずっと不思議に思っていました。

このほか買取品ついては、他の大手の買取会社にしても、持込みしないと買い取ってくれないとか、持込んでも買い取ってくれる保証はありません。特に家具・家電などの持ち込みは大変です。従って、ニュートラルでは大手がやらない1品からでも訪問して買取・査定を行うのはもちろんのこと、家電製品、食器、家具・べッド、オーディオ、自転車、工具、着物、楽器、アウトドア用品、お酒、骨董品、フィギュアなど、今まで捨てていた物でも不用品なら何でも買い取ることを強みとして前面に打ち出したんです。1年目はチラシで訪問先を開拓し、フリーマーケットアプリなどで買取品を販売するため、軽トラと軽バン、2台しかない車をフル稼働して、ただひたすらに走り回りました。

おかげで順調に売り上げは伸びて行ったのですが、スタッフが足りないので営業や査定も、買取品の搬出・搬入も同じメンバーがこなさなくてはなりません。夏場など、直前まで家具などを運んでいた汗まみれの人間が査定に訪問してきたら、お客さまも嫌だろうし、業者としてのイメージが良くないですよね。スタッフを増やして業務の担当を区分するとともに、買取品でパンパンになって足の踏み場もなくなっていた井口事務所に変わる店舗兼倉庫を探すことが急務となりました。早速、求人募集して増員を図りつつ、物件を探していると西区南観音の高島モータービル1階に店舗と倉庫を備えたショールームを開設するのに最適な100坪以上ある店舗跡を見つけ、借りることにしたんです。どうせなら面白くてインパクトのある店名にしようと人気漫画「魁(さきがけ)‼男塾」に準えて「激安‼おたから塾」と命名し、2021年6月のオープンに漕ぎ着けました。スタッフが増え、拠点ができると、営業効率も上がることから、税理士さんの勧めで、その年の9月に個人事業から「株式会社NEUTRAL(ニュートラル)」として法人化に踏み切りました。

ニュートラルが目指すもの

コロナが本格化する年の1月に創業して今年(2024年)で4年目、「お客さまに喜んでもらいたい」の一心で休む間もなく奮闘してきて、会社としても3期目を迎えました。その間には、従来の“古物商許可”に加え、業務の多様化を見据えて“遺品整理士資格”なども取得しましたし、テレビやラジオ、経済誌などメディアの取材を受ける機会も増えました。おかげさまで、わたしたちの知名度も高まり、嬉しいことに創業以来の買取実績が1万件を突破したんですよ。

一方、創業時はスタッフ3人、車2台でしたが、現在、スタッフは20代から50代まで17人に増員、車も軽バンや軽トラ8台に増やして近日中に1・5トン車を購入する予定です。また、活動エリアも広島市内全域、東広島市、廿日市市、呉市へと広がっています。30歳を迎える年に起業して、ここまで来るのも大変でしたが、現状に満足して歩みを止めるわけにはいきません。今後の目標は、多店舗化を見据え、広島県内での活動を盤石にして県外に進出することです。まずは、買取市場として魅力がある岡山県、いつかは自分の故郷の愛媛県へ出店したいので、その実現に向けて目下、会社組織の体質強化を進めています。これまでは、わたしのトップダウンで会社を動かしてきましたが、県外への進出準備などで自分が少し広島を離れてもビジョンが達成できる組織を構築するのが狙いです。実際、現在のスタッフはよくやってくれていますし、彼らの評価制度も含めて、あと2カ月くらいで、よりブラッシュアップしたニュートラルの組織を誕生させてみせますよ。

最近、取材などで会社の将来展望について、よく聞かれますが、わたしは「売上○○億円企業になりたい」とかではなく、「社員を100人以上抱える企業になりたい」と応えています。会社経営してまだ3、4年の若造が言うのもおこがましいけれど、不況が続く厳しい社会で100人以上の社員にきちんとお給料を渡すことのできる環境づくりを実現したいんです。わたし自身、今の仕事が大好きですし、社員全員がやりがいを感じて出勤するのが楽しくなるような会社になれば本望ですね。そういえば、調理師修業時代に毎日のように通っていたパチンコには、ほとんど足が向かなくなりました。だってパチンコで稼ぐよりも仕事をバリバリやった方が儲かりますから(笑)。

家族、そしてこれから

早いもので広島に来て11年経ちました。現在、妻と11歳の長女、9歳の長男(※2024年6月現在)の家族4人で暮らしています。わたしが23歳の時に結婚した妻は、愛媛のゴルフ場のレストランに勤務していた時の同僚です。もともとさっぱりしたどちらかというと男っぽい性格だったので、女性からグズグズ言われるのが大嫌いな自分とは相性ピッタリでした。基本的にわたしのやることについて「ノー」はなく、文句や愚痴も言わずについて来てくれています。ただ、起業するため、前の会社を辞めた日だけは妻もキレてしまうことに。さて、その原因とは?…もちろん、わたしの身勝手な言動にありました。当日、帰宅していつものように晩酌をしながら、「そういえば、今日で会社を辞めたんよ。独立して自分でやろうと思うとる」と告げたんです。娘がちょうど小学校に上がる頃でもあり、そんな大事なことを何の前触れもなく伝えられて、流石に「これから、どうするん!」と食い下がる妻に対し、言うに事欠いて、「一生懸命やるしかないじゃろうが」と応えた次第です。    

ひどい男だと思われそうですが、妻には結婚する時に「飲みに出たら帰らないこともあるし、滅茶苦茶なことをするかもしれない…わたしはこんな人間です。でも、あなたを一生かけて必ず幸せにします。信じてついてきてください」とはっきり伝えていますからね。その言葉を信じて、何があろうとわたしを支えながら、子供たちを育ててくれた、この人が奥さんでなければ何もできなかったし、会社を立ち上げることもなかったでしょう。今日のわたしがあるのはすべて妻のおかげであり、出会うことができて本当に運が良かったと思います。自分は現在34歳ですが、個人的な将来の目標は50歳で仕事からリタイヤすることです。今まで走り続けてきて、時間がなかったので妻と一緒に海外旅行に行ったこともないし、せっかく稼いだお金をゆっくり時間を作って家族に還元したいんですよ。その日を迎えるためにも「まずは健康でいなければ」と、身体を鍛えるべく最近は筋トレに励んでいます。

さて、勝手気ままに生きてきたわたしですが、自分自身で唯一、戒めとしていることがあります。それは、過去の栄光に浸ったり、「昔は良かったな」とか絶対に口にしないこと。過ぎてしまった絶好調の時期や輝いていた頃を振り返って嘆いたり、懐かしがるよりも「今が一番楽しい」、「今が一番かっこいい」、「今が一番調子がいい」、「今が一番お金もある」と、自分の人生は常に「今がベスト!」と言い切れる人間でありたいんです。 “人生100年時代”とされる中、わたしはまだ3分の1を過ぎたくらいの地点だけど、幾つになっても、その時、その瞬間が「一番最高!」という生き方を全うしていきたい。これからも自分の履歴書の頁はどんどん増えていきますが、最高の足跡が綴れるように尽力する所存です。

《新祐哉(あたらし ゆうや)PROFILE》

1990年6月19日、大分県生まれ。自衛官の父の仕事の関係で転勤が多く、幼少期を岡山県、学生時代を愛媛県で過ごす。松山城南高等学校(現・松山学院高等学校)調理科を卒業後、料理人の道を志し、ホテルやゴルフ場のレストラン、居酒屋などの厨房で修業を重ねる。21歳の時に飲食業から営業職への転身を図ろうとリサイクル訪問買取を行う(株)エコプラチナム(本社大阪市)愛媛営業所に入社。23歳で営業部長として広島営業所へ転勤。2020年に独立し、個人事業で不用品出張買取専門店「NEUTRAL(ニュートラル)」を立ち上げる。2021年6月、広島市西区南観音へリサイクルショップ「激安‼おたから塾」を開店、同年9月に法人化を果たす。現在は不用品買取のほか、エディオンサポートチェーンの加盟店として家電販売も手掛けている。所有資格:古物商許可、遺品整理士資格。信条は「約束は必ず守る!」。家族は妻と一男一女。趣味はゴルフ、筋トレそしてお酒。

【会社概要】
会社名  株式会社NEUTRAL(ニュートラル)
代表者  代表取締役 新 祐哉
所在地  〒733-0844
     広島市西区井口台1-14-21第3カジカワビル
電 話  082‐942‐2396
事業内容 不用品買取専門店
許可免許 古物商許可
     広島県公安委員会許可第73127220010号
店 舗  リサイクルショップ 激安‼おたから塾
     広島県広島市西区南観音7-13-28 高島モータービル1階
     営業時間 10:00〜18:00
事業内容 不用品・家具・家電・ブランド品・アクセサリーなどの買取全般
〇企業HP http://kaitori-neutral.com/

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