【広島人の履歴書】
File.12 新 祐哉さん 株式会社NEUTRAL 代表取締役 《前編》

【広島人の履歴書 】


広島と縁のある各界のオピニオンリーダー自らが語る今日までの足跡。知られざるエピソード満載の履歴書(プロフィール)には、現在を生きるヒントが隠されています。

料理人修業を経て、営業職に転身。
就職先はリサイクル訪問買取会社!

故郷、愛媛県の高校の調理科を卒業したのち、料理人を目指していたわたしに転機が訪れたのは21歳の時でした。飲食業の過酷な労働環境や賃金の安さに心身ともに疲弊し、厨房で技術を磨くよりも本来は人と喋ることの方が好きな自分のやりたい仕事を考えてみたんです。頭に浮かんだのが営業職で、売る物に特にこだわりはなかったのですが、たまたま目にしたのが当時は、まだ珍しかったリサイクル品の訪問買取を行う会社の求人でした。入社して2年くらいで愛媛営業所から広島営業所に転勤し、経験を重ねて業界の酸いも甘いも知っていくと、お客様に喜んでいただける査定・買取をしたいとの思いが高まり、30歳を迎える2020年1月に独立し、広島で個人事業をスタート。その1年後に不用品出張買取専門の株式会社NEUTRAL(ニュートラル)として法人化に踏み切りました。以来、「今まで捨てていた物でも買い取ります!」をキャッチフレーズに大手買取業者が手控える1品からでも訪問して買取・査定を行うことを強みに地道に活動を続けたところ、買取実績1万人を突破することができました。まだ34歳(2024年6月時点)の若輩者ですが、更なる飛躍に向けて初心を忘れないためにも今日までの自分の足跡を振り返ってみようと思います。

大分で生まれ、愛媛で育つ

わたしは1990年(平成2年)6月19日、九州・大分県生まれ、両親と3歳下の弟の4人家族です。出生地は大分県ですが、陸上自衛隊に勤務する父の転勤に伴い、幼稚園に通う頃には岡山県津山市に、小学校に上がる頃には父の郷里である現在の愛媛県東温市にと引越しが続いていたので、物心がつく前に暮らした大分県の記憶はほとんどありません。出身地を聞かれるといつも困りますね。自分としては、小学生の頃から家族と定住し、学生時代を過ごした愛媛県が故郷だと感じています。

わたしが育った東温市は、愛媛県の中予地方に位置し、2004年(平成16年)に旧温泉群重信町と川内町が合併して誕生した市で、松山市、西条市、今治市に接しています。小学校は東温市立北吉井小学校に通いました。この頃から、とにかく元気というか、いつも動き回ってひと所でじっとできない落ち着きのない子供でしたね。わんぱく息子からすると当時の父親は、どちらかというと物静かで几帳面、躾けに厳しく、少し恐い存在でしたが、母親はいつも明るくておおらかなタイプ。母親似と言われてやんちゃばかりしていたわたしと、父親似で大人しくてしっかりした弟とは性格が正反対だったようです。

やんちゃな学生時代

小学校を卒業し、東温市立重信中学校に進学しても、じっとしていられない性分は変わらず、身体を動かすことへの欲求は高まるばかり。とはいえ、スポーツに関しては弱点がひとつありました。運動神経は良かったので走ったり、跳んだりは何でもござれでしたが、幼い頃からバスケットボール、バレーボール、ハンドボール、サッカーといった大きなボールを扱う球技が苦手だったんですよ。野球や卓球のように球が小さければ小さくなればなるほど、人並み以上に上手かったのだけれど、どうも球技には気が進まなかった。「自分がやりたい他のスポーツはないだろうか」と考えてみたところ、ふいに闘うことに興味が湧いてきて格闘技を学びたくなってきたんです。

ボクシングでも空手でも種目は何でも良かったのですが、一番身近にあった格闘技が重信中学校にもクラブがあった柔道でした。好きで始めたこともあり、毎日の練習はキツイけれど、投げ技や関節技を覚えるのが楽しく、学校のクラブ活動と並行して町道場にも通うことに。自分で言うのもなんですが、腕前もめきめき上がって、東温市の郡中学校総合体育大会では、なんと1位になりました。もっとも愛媛県の総合体育大会では、3回戦まで進んだものの、対戦相手にボコボコにやられて、しょせん田舎で強いだけの「井の中の蛙」だったことをキッチリ知らされるという悲しいオチも…。

一方、学業の方は、とても褒められるような成績では、ありませんでしたが、小学校、中学校と理科だけは得意でした。特に科学の実験の時間が大好きで、「これとこれをこうしたらどうなるのだろう?」「どんな変化や反応が起きるのだろう?」とか、考えるのが楽しくてたまらない。国語や英語など、他の科目のテストの点数が30点とか40点でも理科だけは80点を切った記憶がないですね。要するに自分が興味のあることには、のめり込んでしまうんです。考えてみると、今でもこの性格は変わっていません。まさに“三つ子の魂百まで”かな。そういえば、子供の頃からスポーツでは「扱う球が小さくなればなるほど、得意だった」ことをお伝えしましたが、大人になるとスポーツ以外でも小さい球を扱うパチンコに熱中するようになりましたね(笑)。

そんな中学生の頃から漠然と「寿司屋になりたい」と思っていたこともあって、高校は3年間で調理師免許が取得できる松山市内にある私立松山城南高等学校(現・松山学院高等学校)調理科に進学しました。学校では普通科の授業と併せて、週に1日は終日調理実習の日があるので、理科の実験が大好きだったわたしには相通じる雰囲気が感じられ、ピッタリだったようです。ちなみに高校に入ると柔道はやめて、釜めし屋さんなどのアルバイトに精を出していました。というのもバイクに乗り始め、ホンダCB400ccなど3台も所有していたので維持費を稼ぐ必要があったんです。

学校とアルバイトで忙しいけれど、高校生活は充実していましたね。友だちも沢山できましたが、いつもつるんでいたのはわたしを入れて7人組の仲間でした。わたし以外のメンバーは、金髪、ピアスで、いかついファッションを身に纏い、タバコを吸うのが当たり前という強者ぞろい。髪を染めるのが嫌いだし、耳に穴をあけるのも嫌い、体質的にタバコも苦手なわたしとは水と油ですが、柔道をやっていたので腕力では負けないことから対等に仲良くできたんです。みんなで並んで写真を撮ると、絵にかいたような不良グループの中に黒髪で真面目そうなのが1人混じっているので、脅されて拉致された陰キャ(陰気なキャラクター)のようだと、よく笑われました。自分が嫌なことは絶対にやりたくないし、ポリシーを曲げてまで人に合わせるのが面倒くさいのだから仕方ありません。興味のあることには、のめり込んでしまうのと同様に、この頑なな思いも、わたしの中では今も変わっていませんね。

料理人修業スタート

どうにか無事に高校を卒業し、学校の紹介で就職したのが滋賀県近江八幡駅前の「ホテルニューオウミ」の和食レストランです。親元を遠く離れ、見知らぬ土地での調理師修業が始まったわけですが…。先輩と同居する寮から毎朝5時に厨房へ出勤すると、ご飯炊きとみそ汁づくりを皮切りに作業開始、営業時間後も片づけや仕込みの準備などで深夜1時まで働き、休みは月に3、4日という過酷な日々でした。すぐ上の兄弟子は優しかったのですが、あまりにキツイ職場に同期入社4人のうち、3人が2~3ヵ月で音を上げて1人また1人と店に来なくなってしまったんです。3番目に辞めたのは、愛媛の同じ高校から就職した同級生で、「ごめん、もう無理や。新(あたらし)も早く辞めた方がいいよ」と言い残して去って行きました。

わたしとしては、入社してたった数ヵ月で尻尾を巻いて逃げるのがカッコ悪いと思い、1人になっても頑張ろうと決めたものの、みんないなくなったので新人4人で手分けしていた作業を全部こなす羽目に。日々重なるストレスに加え、肌の弱い自分にこの地方の水が合わなかったのか顔から全身まで体液が染み出すほど肌がボロボロになり、心身ともに限界を迎えてしまいました。息子の悲惨な状況を聞いて両親もひどく心配し、結局半年ほどで故郷・愛媛にUターンすることになった次第です。

愛媛に帰って早速、新しい勤め先を求めて母校に相談に行ったところ、松山市の居酒屋を紹介されました。オーナーが居て、雇われ店長さんが仕切る店でしたが、勤め始めてみると、それまでワンオペで切り盛りされていたらしく、店長さんの個性が強すぎてやりにくいことこの上ありません。その日の気分によって矛盾したことを伝えてきたり、おそらく人を使い慣れていなかったのでしょう。すぐに逃げるのは嫌だったので、半年ほど我慢したのち、店長ときちんと話をして次の職場を探しました。

そして19歳を迎え、新しい職場となったのが、愛媛県喜多郡内子町の「愛媛ゴルフ倶楽部」のレストランの厨房です。当時の料理長は大阪の有名店で活躍され、確かな料理の腕を持たれておられたのですが、それだけにプライドが高く、いま風に言えばパワハラ気質の方でした。虫の居所が悪いと殴られることもよくありましたね。けれども料理を教わっている立場としては逆らうわけにもいかず、理不尽な言いつけが続いてもしばらくは頑張ろうと耐え忍ぶ日々が続きました。唯一の救いがゴルフ場のレストランなので朝6時くらいからの出勤でも夜は営業しないため、夕方の早い時間には仕事が終わることでした。それまでの職場と異なり、自由に遊べる時間が増えたわけですが、それも良し悪しとなることに。

なぜなら、調理の現場は驚くほど給料が安いんですよ。最初に勤めたホテルも然り、新人の場合は手取りが10万円余りと常に金欠状態なので、なんとかお金を増やそうと夕方には仕事が終わるのを良いことに、ついついパチンコ屋に通ってしまうわけです。自分としては、小さい球を扱うのは得意なはずだったのですが、そうそう上手くいくはずもなく、ずいぶんパチンコ屋に投資してしまいました。トータルすると高級外車が買えるくらい突っ込んだかもしれません。流石に「これではまずい!」とある時期からは、レストランの仕事が終わると、松山市内までトンボ返りして焼肉屋でアルバイトしたものです。この頃は、親元から通っていたので、クルマで1時間以上かかるゴルフ場まで出勤するには朝5時くらいに家を出る必要があり、アルバイトや友だちと夜遊びした日の睡眠時間はわずか4時間ほど。若いとはいえ、よく身体が持ったものです。

そんな日々を繰り返しているうち、高校を出てから調理の現場で転職を重ねながら修業を積んで手に職はついてきたものの、いまの稼ぎではいかんともし難く、このままでは生活していけないと思い始めました。好きで選んだ道なので、どんなに辛くても3年間は辛抱しようと決めていたのですが、将来のことを考えると「一度、料理の仕事から離れてみたい」という気持ちが強まってきたんです。「さて、自分に何ができるだろうか?何がしたいのか?」と考えてみたところ、わたしは人と会って喋ることが好きなので、「営業職をやってみよう」と心が決まりました。単純な性格ですから人と喋ってお金が稼げるなんて、夢のような仕事に思えたわけです。

営業職へ転身を図る

ところで、わたしは20代そこそこにして何回かの転職を経験しておりますが、自分の中で「次の勤め先を決めてから辞める」という決めごとを課していました。生来、じっとしていられない性質なので、次の職場に勤めるまで間が空くと、だらけてしまうんですよ。ずっと泳ぎ続けないと死んでしまうマグロやサメのように働き続けないとダメになってしまう人間なのだと思います。

営業職というやりたい職種が決まると早速、求人誌を捲ってみることに。営業する商品に特にこだわりはありません。保険でもクルマでも太陽光発電でも何でも良かったのですが、ふと目に留まったのが、当時、愛媛県ではまだ珍しかった“リサイクル訪問買取”を行う株式会社エコプラチナム(本社大阪)の愛媛営業所の求人でした。雇用条件を見て、めちゃくちゃ給料が良いことを知り、興味が湧いて面接に赴いたところ、即採用の返事をいただけたんです。めでたく採用が決まったことで、ゴルフ場に退職を申し出て、見知らぬ業界へ飛び込んだわけですが、21歳でこの会社と出会ったことが、自分の運命の分岐点となるなんて、いま考えると不思議な気がします。

そして初出勤の日。まずはインターホンの押し方を伝授されると、いきなり車に乗っけられてテリトリーを割り振られることに。この頃は、営業マニュアルなんてなかったのか?先輩から「訪問のやり方は、見て覚えてね!」とひと言伝えられ、すぐにテリトリー内での訪問開始でした。先輩が1軒目のお宅のインターホンを押すと反応はなく、「よし、次に行こうか」と2軒目へ。しかし、2軒目、3軒目も返事はありません。見知らぬ人の家を訪問したことなど初めてなので「そうか、日中のこのエリアは留守宅が多いんだな」とぼんやり考えていると、先輩から「4軒目は、キミがやってみようか」とのお達しです。予想もしなかった展開に「いやいや、僕はまだインターホンの押し方しか習っていませんが⁉」と戸惑うわたしに先輩は「大丈夫、大丈夫、出来るから」と販促用の冊子を押し付けてきました。

仕方なく、意を決してインターホンを押してみると、それまで留守続きだったのに4軒目のお宅に限って返事があったんですよ。出て来られた家人に営業未経験のわたしが販促用の冊子を片手に「こんなものを買取しています」とたどたどしく説明していくと、「うちは結構です」と冷たい言葉をかけられ、ドアがガチャリと締まる音が聞こえてきました。訪問営業では、こんな対応をされるのはよくあることなのですが、いかんせん、右も左もわからない新人であり、しかも入社した当日です。喋ることが好きだから、やってみようと安易な動機で営業職に転身した初日のキツイ洗礼にショックを受けたことは言うまでもありせん。翌日からも同じように断られるばかりの訪問営業を続けていくと、次第に免疫ができたのか?ずいぶんメンタルが強くなった気がします。営業の現場を離れて久しい今、わたしにあの頃やっていたようなことは、まずできないと思いますね。《後編に続く》

《新祐哉(あたらし ゆうや)PROFILE》

1990年6月19日、大分県生まれ。自衛官の父の仕事の関係で転勤が多く、幼少期を岡山県、学生時代を愛媛県で過ごす。松山城南高等学校(現・松山学院高等学校)調理科を卒業後、料理人の道を志し、ホテルやゴルフ場のレストラン、居酒屋などの厨房で修業を重ねる。21歳の時に飲食業から営業職への転身を図ろうとリサイクル訪問買取を行う(株)エコプラチナム(本社大阪市)愛媛営業所に入社。23歳で営業部長として広島営業所へ転勤。2020年に独立し、個人事業で不用品出張買取専門店「NEUTRAL(ニュートラル)」を立ち上げる。2021年6月、広島市西区南観音へリサイクルショップ「激安‼おたから塾」を開店、同年9月に法人化を果たす。現在は不用品買取のほか、エディオンサポートチェーンの加盟店として家電販売も手掛けている。所有資格:古物商許可、遺品整理士資格。信条は「約束は必ず守る!」。家族は妻と一男一女。趣味はゴルフ、筋トレそしてお酒。

【会社概要】
会社名  株式会社NEUTRAL(ニュートラル)
代表者  代表取締役 新 祐哉
所在地  〒733-0844
     広島市西区井口台1-14-21第3カジカワビル
電 話  082‐942‐2396
事業内容 不用品買取専門店
許可免許 古物商許可
     広島県公安委員会許可第73127220010号
店 舗  リサイクルショップ 激安‼おたから塾
     広島県広島市西区南観音7-13-28 高島モータービル1階
     営業時間 10:00〜18:00
事業内容 不用品・家具・家電・ブランド品・アクセサリーなどの買取全般
〇企業HP http://kaitori-neutral.com/

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