ミュージシャンから塾の先生へ転身。
独立後はプロデューサーとして活躍!
自分の人生なんて、なかなか振り返る機会がないけれど、改めてわたしのこれまでの道のりを振り返ってみて思うことは「ずいぶんと振れ幅の大きい人生を送ってきたなぁ」ということです。大学時代はバンドに没頭。その後、学習塾の会社に就職し、塾の先生、人事部採用担当を経て、学校の立ち上げにも携わり、学校法人の理事兼副校長として学校を運営。それから自分の会社を立ち上げて、様々なプロジェクトに参画し、時には甲冑を着てステージに立ったり、今は今で議員をさせていただいたり…。最近、FacebookとかSNSで近況を発信すると、過去につき合いのあった方から久々にメールが来たりします。バンド時代の仲間、塾の先生時代の教え子、人事部時代の上司・部下、学校時代の生徒・保護者などなど、みなさん、いまのわたしの活動を知ると、一様にびっくりしますね。例えば、「えっ⁉平岡さん、いったい何してるの?」「えっ⁉議員さんなの?」みたいな反応ばかりです。まさに「人生何が起きるかわからない」、「何がどうなるかわからない」を地で行く、平岡優一の今日までの歩みをご紹介しますので、しばし、お付き合いください。
広島生まれ、関西育ち。
わたしは昭和43年(1968年)3月25日、広島市の日赤病院で生まれました。生後すぐのことはもちろん記憶にありませんが、当時は家族と草津に住んでいたようで、おぼろげに記憶にあるのは2~3歳の頃に廿日市宮内の祖父母の家の敷地内に建てた家で暮らしていたことくらいですね。4歳になると、地元の放送局・中国放送(RCC)に勤務していた父親が大阪支社に転勤になったことから、兵庫県西宮市に引越ししたので幼少期については広島生まれの関西育ちといえるでしょう。
西宮市では上甲子園幼稚園に通ったのち、上甲子園小学校に進みました。幼い頃から絵を描くのが得意だったわたしは小学校2~3年までは絵画教室に通って水彩画を習っていましたが、4年生くらいからは「ドラえもん」「サーキットの狼」「トイレット博士」「まことちゃん」といった当時の人気漫画に夢中になり、自分でもマンガを描くようになったんです。少年マンガ誌に応募しようと「マンガ通信教育」を受けて、ケント紙、Gペン、カブラペン、スクリーントーンといった本格的に道具も揃えるほどの熱の入れようでした。6年生になると、学校のクラブ活動に新設された「マンガ部」の初代部長を務め、子どもなりに「将来の夢は漫画家」と口にしていたのですが、父親からは「漫画家や画家は成功するのが難しいから、弁護士か、鮨屋の丁稚になれ!」なんて言われていましたね。
一方、マンガのほかには、学芸会の劇のシナリオを書いたり、衣装を製作するような役回りを進んで引き受けていたものです。また、歴史が好きで戦国武将が大のお気に入りだったことから、自分の部屋に本物の甲冑や刀を置きたいと本気で思ってみたり。こうしてみると、不思議なものですね。すでに今のわたしに通じるものがあります。そして中学校に進学するわけですが、父親の赴任期間が終わると、いずれ広島本社の勤務に戻ることから、わたしも関西ではなく広島の中学校へ進む方が良いことになりました。中学受験の結果、無事に合格したのが修道中学校でした。
修道中学・高校で目覚めたこと。
修道中学校は、修道高等学校との中・高一貫教育とする私立男子校でしたが、わたしは中学進学を機に、漫画の世界からは遠ざかり、一転して身体を動かすことに熱中するようになりました。きっかけとなったのはブルース・リーやジャッキー・チェンが大活躍する香港映画です。以来、それまで全く興味のなかった武術に関心を持ち始めて中国武術を教えてくれる方がいると聞けば足繁く通ったり、学校の休憩時間はトレーニングルームのマットの上でバク転や前方宙返りなどアクロバットの練習に励むようになりました。いつしか将来の夢は「漫画家」から「アクションスター」に代わっていましたね。
そして高校生になると、自分ならではの美意識が芽生えるようになりました。ファッション然り、とにかく人と同じことをするのが嫌で、自分で髪を切り、セーラー服に人民帽といったスタイルで本通を闊歩してみたり。また、路上パフォーマンス集団「劇男一世風靡」にハマっていた時期もありました。仲間と共にメンバーを集めて、文化祭のステージやディスコなどで一世風靡の真似事をよくやっていましたね。ちなみに中・高通じてアーチェリー部にも所属しておりました。こちらも意外と真面目にやっていたので社会人、大学生、高校生が競い合う県の大会で3位になったこともあるんですよ。高2くらいからは遊びに走ってしまい、結局辞めてしまいましたが。
あとは、広島市内のディスコに毎週のように繰り出すなど、高校時代はまさに自由気ままを満喫したものです。人前で何かを表現する楽しさを知り、勉強そっちのけの毎日を過ごしていく中、気が付けば高校生活も終りが近くなりました。中国放送の大阪支社勤務を終え、広島本社で報道記者をしていた父親はわたしが17歳の時に他界したのですが、学業よりも遊びに熱中する息子に対しての遺言が「せめて大学だけは行ってくれ」でした。ところが、当の本人は受験勉強もろくにしていません。辛うじて関西外語大学に合格し、通うことになったのですが、枚方市の田舎にある大学にどうにも馴染めず、3か月くらいで嫌になり、不登校になりました。とはいえ、父の遺言を守る必要もあり、翌年再び大学受験することを決め、結局、現役から1年遅れで関西学院大学法学部政治学科に進学したんです。
大学時代はバンドに没頭。
中学・高校で何かを表現する楽しさに目覚めたこともあり、大学時代はバンドを組み、ライブ活動に没頭しましたね。自らライブのチラシを作ったり、イベント企画も行ったり、バンドに関わることは何でもこなしたものです。学生最後の年、卒業記念のつもりで東京ツアーを行ったのですが、予想外にお客さんの反応がよかったので、結局、卒業してからも毎月、東京、名古屋、大阪でライブをしていました。時はバブル全盛期です。同級生が大学卒業とともに、名だたる企業に就職していく中、自分は就職もせずにライブに没頭する日々。ラルクアンシェルとか黒夢、マリスミゼル、ラクリマクリスティといった、数多くの有名ミュージシャンとも共演しましたし、それなりにファンも増え、音楽雑誌にも露出するようになると、自然にメジャーデビューを意識するようになりました。実際にレコード会社の方からの話もありましたけど、メジャーデビューしたからといっても食べていけるわけではありません。わたし自身、根っからのミュージシャン気質ではなかったのかもしれないし、正直なところ、バンドなんて若い頃にやるもので、年食ってまでやるものじゃないと思っていたこともあります。広島に帰省する度、祖父母からも「優一は20代半ばにもなって、そんなに髪伸ばしてどうするんね!」と、心配されていましたし…。
結局、26歳の時に約5年間続けてきたバンド活動から卒業。とはいえ、華やかなバンドの世界を離れて、会社に就職して普通の人になるというのはなんだかカッコ悪い気がして、音楽雑誌には「海外レコーディングのため、しばらく活動休止」と書いてもらい、わたしは髪を切って、広島に帰ることにしました。今になって考えてみると、自分自身が若かった気もします。当時共演していた同世代のミュージシャンが今も現役で活躍している姿を見ると、応援したい気持ちと共に正直うらやましい気持ちもあるし、「苦労してでも、もっと続けるべきだったかな?」と、少し後悔しましたから。仮に目の前に当時の自分が居たら絶対に〝続けること〟を勧めるでしょうね。
バンドを卒業、学習塾の世界へ。
さて、広島に帰ってからは、とりあえず気軽にできる仕事として塾の先生になりました。「塾なら子ども相手で、昼から勤務で楽だろう」くらいの感覚で、鷗州塾を展開する会社に就職したのですが…。いざ入社してみると、連日朝から研修や会議が目白押しで、退社するのはいつも夜中の2時、3時でした。土・日・祝日も補習や定期テスト対策があるし、速攻で辞めようと思いましたが、「先生!」「先生!」と慕ってくる生徒がいるので、次第に情も湧いてきます。そのうち受験指導の面白さも分かってきたことから、大変ではありましたが、教師としてずいぶんと楽しい日々を送らせていただきました。
そして転機が訪れたのは入社4年目でした。新規事業の担当として大阪に転勤になりました。新規事業は一年で頓挫してしまったのですが、その時の仕事ぶりが買われて、今度は人事部の採用担当に抜擢され、新卒採用など社員採用を任されたんです。この時は本当に水を得た魚のように、日々仕事が楽しくて、天職だと思いましたよ。朝は誰よりも早く出勤し、夜は夜中過ぎまでひとり会社に残り、黙々と仕事をする。負けず嫌いの性格から人一倍、いや二倍、三倍がんばりました。年中無休だし、起きている間は頭の中は仕事のことばかりでしたが、とにかく仕事が楽しくて、楽しくて、狂ったように仕事に没頭していましたね。当時は、東京・大阪・岡山・広島・山口・福岡を飛び回って70本以上の会社説明会をこなし、毎年1000人以上の学生との面接を担当。さらには、社員の研修や配属、評価についても任されるようになって、仕事の幅もどんどん広がっていきました。
人事部には8年間在籍しましたが、会長の勅命で学校の立ち上げを担当することになりました。場所は南太平洋に浮かぶ島国、ニュージーランド。ニュージーランドにAICという高校を立ち上げることになりました。それを皮切りに、上海にある名門大学、復旦大学の広島校の立ち上げ、英語幼稚園の立ち上げ、そして最後に手掛けたのが現在、下祇園にあるAICJ中学・高等学校の立ち上げでした。AICJは、授業の半分を英語で行い、オックスフォードやハーバードといった海外の名門大学を目指すという学校です。ここでは主に生徒募集や広報を担当。開校2年目には、AICJの理事兼副校長に抜擢されて、学校の運営も任されました。39歳の時のことです。部下は約50人、半分が海外から来た先生なので、会議は英語で行います。この頃は本当に大変でしたね。それなりに成果も出していたので次年度は役員候補とも言われていたのですが、周りからの嫉妬ややっかみも凄くて、最終的にはわたしのことを快く思わない人物に謀られ、ラインから外されました。
1、2年じっと耐え忍んでいれば、復活する目もあったのでしょうが、当時のわたしにとっては死刑宣告も同然でした。頑張れば、頑張るほど、裏目に出てしまう。抗えない運命の流れのようなものを強く感じましたね。あのまま、鷗州塾に残っていれば、ある意味安定もしていたし、今頃は普通に役員をやっているかもしれません。ただ、会社にぶら下がって生きるのは本意ではないし、「自分ひとりの力で勝負してみたい!」という思いもあって、40歳の時に思い切って退職し、独立にする道を選びました。
独立し、企画・プロデュース会社設立。
独立後は自宅でWEB制作やパンフレットのデザインをはじめることに。子どもの頃に絵を描くことが得意だったことや、バンド時代や鴎州塾時代にチラシのデザインくらいは作成していたとはいえ、今振り返ってみると、ずいぶんと無謀だったと思います。専門的な知識もスキルもなく、まったく経験のない異業種に40歳で飛び込んだわけですから。会社にいた頃は、採用や新規事業をやっていた関係で、広告代理店の方々とも付き合いが深く、仕事を求めて、わたしを訪ねてくる人が絶えませんでした。ところが、独立後は自分が彼らに仕事を求める立場に。ただ、彼らも起業したばかりの人間を相手にするほど暇ではありません。結局、「自分は会社の肩書で仕事をしていたんだな」と思い知らされました。つまり、会社のお金、会社の信頼、ブランドがあったからこそ、ビジネスが成立していたわけです。ましてや、それまでいた教育関係とはまったく異なる広告デザインの業界であり、しかも40歳のど素人がはじめたわけですから、普通に考えたら誰も相手にしてくれませんよね。
時には、些細な行き違いで土下座をさせられたこともありますし、〝貧すれば、鈍する〟で、いろいろ騙されたことも少なくありません。時間だけは十分あったので1時間程度なら交通費節約のために歩いて移動することもしばしば。仕事仲間との打ち合わせは、いつもマクドナルドかファミレスです。それでも紹介とかで、ポツリポツリと仕事をいただけるようになり、パソコンに向かっての作業が徹夜に及ぶこともありましたが、自分が思い描いたイメージをカタチにできることにやりがいと醍醐味を感じるようになりました。そのうちWEB制作やデザインにとどまらず、プランニングやコンサル的な仕事もいただくようになったのを機に会社を設立。小さいながらも事務所も借りてスタッフを雇い、徐々に法人としての体裁も整っていきました。
元々、鷗州塾にいた頃から企画書・提案書を書く機会が多かったし、新規事業の立ち上げをしていた頃は「無から有を生み出すこと」が仕事でしたから、プランニングやコンサルはわたしの得意分野です。地域おこしのプロジェクトにプランナーとして招かれ、イベントを企画したり、日本酒や和菓子といった商品開発の依頼も増えていく中、広島県観光課から声がかかり、観光プロデューサーに任命されました。というのも当時(平成24年)、NHKの大河ドラマは松山ケンイチさん主演「平清盛」でした。この大河ドラマに合わせて広島県の観光PRをしようと、湯崎英彦知事の肝煎りでスタートした大型プロジェクトで、そのプロデューサーに任命されたわけです。
任期は2年半。ただし、報酬はゼロ。条件を聞いて耳を疑いましたが、私に「NO」という返事はありません。何事も断ってしまったら、そこでおしまいです。相手は自分に期待をしてお声がけくださっているわけで、「NO」というのは簡単ですが、それを言ってしまうとチャンスもゼロ、可能性もゼロになります。何がどうなるか分かりません。そういう時のわたしの答えはひと言、「かしこまりました」。会社にいた頃からずっとそうです。おかげさまで、いろんな企画をさせていただく機会を得ましたよ。
例えば、観光PR隊である「ひろしま清盛美少女隊」。これはわたしが自らアクターズスクールに足を運んで、地元の女性出身アイドルユニット〝まなみのりさ〟を口説き、甲冑のデザインを手掛け、テーマソングの歌詞も書きました。一方、広島電鉄さんにかけあって実現し、デザインも担当したのが「ひろしま清盛電車」です。ほかにも、金賞が〝ゴールドバー(純金)10グラム〟という趣向をこらしたスタンプラリー「わくわく清盛ゴールドラリー」や、「清盛の幟やタペストリーで街をジャックする!」といった企画を次々に形にするなど、本当に良い経験をさせていただきました。清盛プロデューサーとしてテレビ、ラジオ、新聞にもずいぶんと出させていただいたのも懐かしい思い出です。任期を終えた際には、湯崎知事自ら表彰してくだり、わたしもスピーチをさせていただきましたが、会場は万雷の拍手に包まれ、自分の人生においても最高の一日になりました。《後編に続く》
《平岡優一(ひらおか ゆういち)PROFILE》
昭和43年3月25日生まれ。修道中学・高等学校卒業。関西学院大学法学部政治学科卒業。広島市で生まれたのち、父親の転勤で関西へ。幼稚園・小学校時代は関西で過ごす。中学校からは再び広島に戻り、中高6年間を過ごしたのち、大学進学で再び関西へ。広島に帰郷し、株式会社鷗州コーポレーションに入社。塾教師を経たのち、人事部で採用・研修業務を担当。さらには新規事業として英語幼稚園、上海の大学の日本校、AICJ中学・高等学校の立ち上げに携わり、学校法人AICJ鷗州学園理事、AICJ中学・高等学校副校長となり、学校運営を経験する。40歳で独立、インフォライズン株式会社設立。広告制作事業やプロデュース事業をスタート。宮島街道プロジェクト、広島県平清盛プロジェクト、安芸ひろしま武将隊プロジェクトなどを手掛ける。さらには社会福祉法人において人事コンサルティング、小学校、大学、各種団体において講師を務める。
平成31年4月に実施された広島市議会議員選挙(広島市中区)にわずか3週間前に出馬表明し、初当選を飾る。現在、会派は自民党・市民クラブ。総務委員会(副委員長)、都市活性化対策特別委員会(副委員長)、広報委員会(委員長)、議会運営委員会に所属。
【事務所概要】
●事務所名 平岡優一後援会事務所
●所在地 〒730-0846 広島市中区西川口町1-8 益国ビル
●連絡先 Tel (082)555-8212 Fax (082)555-8213
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◎優Tube【平岡優一公式YouTubeチャンネル】https://www.youtube.com/channel/UC8a9tG6DSxmB9G2ZctIWnEw