里山研究の苦難と希望

里山を巡る環境問題を社会学と生態学の両アプローチから捉えるチャレンジングな研究の取り組みを始めた頃、まず私を苦悩させたのは「里山」という用語の曖昧さでした。身近に里山という言葉を見聞きするようになった現在でもそういう側面があると思いますが、少なくとも研究として取り扱う際にはその用語の定義が特に重要です。

学術的な場面で「里山」が使われたのは,昭和30年代後半に森林生態学者である四手井綱英が「奥山の対照で、山里をひっくり返して…」という意味で造語として使用したのが最初と言われています。いまでこそ「SATOYAMA」でその意味内容が国際的に通用するらしい用語も、もともとは相対的な位置づけに過ぎなかったのです。

学会や研究会などで里山を主題とした議論がなされ、研究事例・論文も蓄積されながら、このコラムの説明中にある環境省の定義のとおり、人の手が入ることで維持されている二次林とその周りの里地や草地、ため池なども含めた「景観」の概念として使用されることで学術的な認識が共有されました。ここでようやくその用語のモヤモヤが少し晴れることとなりますが、それは私が研究を始めてから約十年後のことでした。

※里山関連の書籍が出始めたのもこの頃。筆者は写真手前の和文本2冊で執筆担当。

ただ、次の困難は「里山林」の生態学的な位置づけです。里山林とは里山という立地、空間に存在してその景観の主たる構成要素となる森林を指します。実は当時、いや今でもそうだと思いますが、里山林といえば全国的にいわゆる「雑木林」(※人の手が加わって成立している二次林のうち多様な広葉樹を主体とした森林の総称)のイメージが一般的にも学術的にも強かったのです。

なぜそうだったのかはいろいろ論考できますが、長くなるので割愛させていただきます。ここで重要なのは、私が里山林に注目し始めた時、身の回りにあったそれらの実像は、ほとんどがこの連載の初回で触れた「アカマツ」を中心とした里山林だったのです!そう、広島の農村の原風景そのもの、まさにその真っ只中で、真っ新な状態から,里山林を捉えようとしていたのです。

もちろんアカマツ主体の里山林は全国的に見ても珍しくはありません。ところが、広島のアカマツ林のほとんどは,手入れ不足で下草や他の広葉樹が繁茂し,マツ枯れ病も当時から全盛期で,見るからに荒廃が進んでいました。生態学的にも,放置しておけば教科書通りナラ類の広葉樹林に遷移するという考え方もあってか,研究のフィールドとする優先度や関心は相対的に低かったと思います。

そのような里山林を対象にした身近な環境問題といえば、マツ枯れを防ぐための薬剤空中散布に対する住民の反対運動などもありました。ところが私の当時の関心は、里山林という地域資源の価値を高めて活用しながら、地域コミュニティも持続的に活性化するというポジティブな環境保全活動、いわば地域づくりでした。そうした活動とその対象となる里山をフィールドとして研究をしたかったのです。

しかしながら、そうしたフィールドがすぐに見つかるはずもありません。4月からは生態学の研究室のほうのゼミにも参加し始めましたが、最初は用語の定義や研究のフレームワークに関する社会学寄りのレポートしかできず、厳しくも優しい先輩方はダメ出しまではしませんでしたが「こいつ何しに来たんや?」と正直思っていたはずです。

ちなみに、4年次の終わりに初めて日本生態学会で発表した時にも内容はまだ社会学に近く、発表後の質疑で「あなたの発表のどこが生態学なんですか?」という強烈な質問を受けて狼狽したのを覚えています。その時は共同発表者のN先生が助けてくださいましたが、いまのプログラムからは想像できないほど、当時の生態学会には社会科学的アプローチを含めた研究発表や関連集会はほとんどなかったのです。

※次の写真は学会発表を終え研究室メンバーで記念撮影。筆者は左端で何事もなかった様子だが…。

同期生が研究対象や方法が順調に決まり調査にも行き始め、焦る気持ちを抑えきれず藁にもすがる思いで大学近くの県林業関係事務所を訪ねたのは、確か梅雨が明けた頃だったと思います。対応されたH課長さんが私の研究の趣旨をじっくり聞いてくださり「それならワシの住んどる地区に一度来てみんさい。地元のお年寄りたちがアカマツ林を手入れしとるけえ」とおっしゃってくださったのです!

その日の夜、近くのディープな居酒屋で西条のお酒をいただきながら、地域社会活動にも力を注いでいる課長さんから、さらに詳しく熱いお話を伺いました。「マツタケ山」、「生きがい」、「環境教育」そして「財産区」…どんどん出てくるキーワードに、ほろ酔いながらもワクワクしっぱなしでした。しかも話が盛り上がったまま人生初の「スナック」にも連れて行っていただいた覚えがあります。今振り返ると、ここでも私の「飲みニケーション」術が役に立っていたかもしれません(笑)

次回はいよいよ私の原点となる里山フィールドのご紹介です。かなり回り道してきましたが、そこでの「とあるアイデア」が二十数年後のいまに繋がり、まさかのカタチになるのです。

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