「広島平和記念資料館」前館長 志賀賢治さん 「廢墟に佇つ」

1945年8月6日、人類史上初めて原子爆弾が投下された広島。当日の記憶を被爆資料や証言を通じて伝え続ける「広島平和記念資料館」の前館長である志賀賢治さんに、資料館初代館長・長岡省吾さんについて語っていただきました。

1945年8月6日、初めて人々の頭上で爆発した一発の原子爆弾によって広島は一瞬にして廃墟と化しました。見渡す限り焼け野原、荒涼とした地表に残るのは内部が焼け落ちた石造りやコンクリート製の建物のみ。木造家屋は全て焼き尽くされています。「75年草木も生えぬ」、そう人々が口にしたのも当然です。

被爆直後のそんな荒野をリュックを背負った一人の男が彷徨していました。焼野原から溶けた瓦やガラス瓶を拾い集めているのです。人々が生きる糧を求めて必死に蠢く中、彼は人々が見向きもしない文字通り「ガラクタ」を拾い集めているのです。

 後に広島平和記念資料館初代館長となる「長岡省吾」です。この時は、広島文理科大学地質学鉱物学教室の授業嘱託でした。

 彼を知る人物による記述(文末参照)に沿って彼の事績を辿ってみましょう。

 8月6日当日、彼は山口県上ノ関に軍の用務で出張していましたが、広島の異変を聞くや帰郷。学生や同僚の安否を確認するため、直ちに現在の中区東千田町にあった勤務先の大学に向かいます。列車を己斐駅で下ろされ、路面電車の線路に沿って歩いて行く途次、「急に疲労を感じ、そこにあった石どうろうの台に腰をかけた。と、しりに何か突き刺さるような痛みを感じた。おかしいぞと思いながら立ちあがって、台の表面を調べてみると、本来みがきあげられているはずの台石の表面が、ザラザラになっていた。軟かい部分が溶けて硬い質の部分が針のようになっているのであった。」(中国新聞1976.7.23)

 鉱物の研究者であったが故の気づきでしたが、彼は、「『これを調べてみよう』と思いついた。よく見ると、拝殿前に敷きつめられている黒い玉石も、表面が焼けてただれている。想像だにしなかった高熱の所産であることが考えられた。」(中国新聞1976.7.23)

こうして従来の爆弾では考えられない石の変化に気づいた彼は、直ちに被爆の痕跡を留める「ガラクタ」の収集を開始します。当初、彼の奇矯な行動は、人々から「拾い屋」と蔑まれていましたが、次第に理解者も現れ、収集に手を貸す人々も集まって来ました。そして、ついに被災資料の保存に頭を悩ませていた広島市長の目にも止まり、広島市の被爆資料の専門職員として資料の収集に携わることになるのです。

「原子爆弾に関する臨時調査事務を嘱託する。昭和二十三年十二月三十一日」と記された辞令を受け取って職員になった長岡氏ですが、不本意にも最初に与えられた仕事は、観光課での「原爆十景」の選定とその解説の作成だったそうです。週二日の雇用だったそうですが、さすがに、長岡氏も腹に据えかね、市長直属であるべしと直談判をし、秘書課に机を与えられることになります。

 「こうして長岡さんの調査が、広島市の業務として、正式に発足したのであるが、長岡さんは、純然たる学者タイプの人で、役所では異質な存在であった。長岡さんは、最初の出勤日から独りぼっちの業務に専念し、課の一角にかわらや石を拾って来ては保管した。歩くにも足に突き当たるようになったので、まだ使用していなかった市長公室に場所を変えたが、ある日、でっかい石を持ち込んで来て、みんなをびっくりさせた。」(中国新聞1976.7.27)

こうした中、1949年7月30日、広島市最初の公民館として中央公民館が開設され、その一室に「原爆参考資料陳列室」が設けられることになります。1949年9月のことです。市長公室や自宅で保管されていた多数の被爆資料が運び込まれ、机や椅子の上に陳列されます。粗末ながらも初めて被爆資料の展示施設ができたわけです。その後、1950年8月6日、公民館の隣に二室からなる「原爆記念館」が完成し、長岡氏の活動拠点となります。この「原爆記念館」を拠点として、長岡氏の収集活動は一層熱がこもることになります。

しかしながら、施設の職員は彼一人。施設の運営から展示の企画・設営、さらには押し寄せる見学者の応対、全て彼一人でこなさざるを得ません。しかも、与えられた予算はごく僅かだったそうです。この当時から見学者は殺到し、結成間もない広島カープ球団のコーチとして来日したジョー・ディマジオも見学に訪れています。ディマジオがそのとき同伴していたのは、新婚間もないマリリン・モンローでした。

そんな状況にも関わらず、彼は尚も資料の収集に精を出すのです。しかも、資料の収集と併行して、爆心地の特定や残留放射線の調査も行っていました。爆心地の特定のために、6,542ヶ所もの墓石の影を調べているのです。そうした彼の境遇を見るに見かねた支援者も現れ、また、当時のABCC(現「放射線影響研究所」)から当時の時価10万円相当の備品類の寄贈もありはしたものの、嘱託職員としての彼の孤軍奮闘はもう暫く続くことになります。そして、1955年8月24日、遂に待ちに待った「広島平和記念資料館」が開館します。

 この年の4月1日、彼は漸く嘱託の身分を解かれ、広島市の正規職員として採用され、8月1日には広島平和記念資料館長に就任するのです。以後、1962年1月末に体調を理由に辞職するまでの7年間、爆心地の特定や残留放射線の調査・研究活動を続けながら、資料館長として草創期の「広島平和記念資料館」を支え、資料館の礎を築きます。退任に際して自らが収集した被爆資料1500点を広島市に寄贈し、以後、未だ広島に残る残留放射線の量を解明することに残された人生を捧げました。1973年2月1日永眠、享年71。

 それから36年を経た、2019年、資料館では、10年以上かけて検討されてきた過去最大の展示更新が一般公開されます。展示更新の柱は、キノコ雲の下にいた被爆者の視点で、実物資料によって、あの日を再現する、ということでした。そのため、設置当初長岡氏も批判的であった「被爆再現人形」は引退、長岡氏が築いてきた本来の展示に戻ったわけです。「原点に帰る」、資料館スタッフは、それを合言葉に展示の更新作業に勤しみました。というのも、展示更新の山場を迎えた2015年、長岡氏の退任以降途絶えていた長岡家との交流が再開し、彼が残していた二万点に及ぶ資料の寄贈が遺族の手によって実現したからでした。廢墟に佇った男は、今も資料館を見守り続けていることでしょう。

 ~最後に~

長岡氏の人柄を知る意味で、被爆に至るまでの軌跡も簡単に辿っておきましょう。

極めて特異なことは、彼に特殊な爆弾であることを気づかせた地質学・鉱物学の知識は学校教育を通じて身につけたものではなかったことです。現在残されている長岡自筆の履歴書の記載によると、次のようだったようです。広島修道中学校三学年を終え、満州地質学研究所を経て、陸軍特務機関(地質班)に就職します。その後、哈爾濱博物館地質課に勤務した後、地質学鉱物学研究所を開設。そして、満州に鉱業会社を設立するのです。会社退職後は、広島文理科大学地質学鉱物学教室に籍を置きます。つまり、実地を重ねて地質学を学び、その後も一貫して地質調査、鉱物の調査採集の実務に携わっていたわけです。

ところで、こうした特務機関という経歴故か彼は殆ど記録を残していませんし、周囲に自らの半生を語ることもありませんでした。ただ、同窓故か先に引用した文章の執筆者には幾分か漏らしていたようで、彼の死後その一端は、中国新聞のコラム『緑地帯』に「広島の内蔵」と題して八回にわたって連載されています(1976.7.21〜76.8.3)。執筆者は、当時広島市市史編纂室長だった小堺吉光氏。『広島原爆戦災史』の編集者の一人として知られています。

※1 「爆心地を中心に360度の広島」(撮影者:米軍/提供者:広島平和記念資料館)
※2 「長岡省吾肖像」(長岡省吾収集)
※3 「人影の石を調査する」(提供者:福島志津子氏)
※4 「被爆資料を調べる」(提供者:福島志津子氏)
※5 「被爆馬を調査する」(長岡省吾収集)
※6 「建築中の広島平和記念資料館」(長岡省吾収集)

●プロフィール

志賀 賢治(しがけんじ)

広島県広島市出身。1952年生まれ。
1978年、広島市役所に採用され、健康福祉局長や人事委員会事務局長などを歴任。
2013年4月~2019年3月までの間、広島平和記念資料館館長を務めた。
2020年4月からは、広島大学原爆放射線医科学研究所附属被ばく資料調査解析部客員教授を務めている。

著書「広島平和記念資料館は問いかける」

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