プロ野球人生その後~原爆スパイ~

「原爆スパイ」について書く。ちょっと遠回りするが。いや、ちょっとではない。かなり遠回りだ。

年が明けて訃報が届いた。高橋里志、享年72。肺がんだったそうだ。福井県出身の高橋は、1967年ドラフト4位で南海ホークス入団。長らく芽が出ず、当時南海の監督だった野村克也とトラブルを起こし、5年で自由契約に。一年浪人して74年、南海時代に面識があった古葉竹識に誘われ、広島にやってきた。移籍して、高橋は一挙に花開いた。77年には20勝14敗で、セ・リーグ最多勝投手となった。その後、日本ハム、近鉄と移籍した高橋は、86年限りでプロ野球を引退した。

引退後の生活拠点を広島に構えた高橋は、中区胡町にスナックを開いた。「メンバーズ高橋」。同時に野球解説をすることになる。筆者とはこの頃知り合った。筆者の知る高橋は優しかった。資料などを読むと、よくトラブルを起こしたと書かれている。カープ在籍中の79年は、交代を不満に思いベンチ裏の鏡をたたき割ったともある。行動を共にして、そんな激しい高橋を感じたことは一度もなかった。夜ともなれば知人の新聞記者らを誘って、「メンバーズ高橋」には何度か通った。客商売が高橋を変えたのか、筆者が激するに値しない新人取材者だったからか。プロ野球取材を始めたばかりのころである。

プロ野球選手の現役は短い。超一流の選手で20年ほど。現役時代に名を上げたプレーヤーには、引退後、指導者の道が開ける。あるいは解説者の場合も。そういう選択肢があるのは、当然のことながら、ある程度の活躍を続けた選手ということになる。ある程度の活躍とは、どのレベルだろうか。ちょっと強引だが、年俸で判断してみたい。

日本のサラリーマンの生涯賃金は、およそ3億円という説がある。この数字自体、やや背伸びした感はあるが。これをプロ野球選手が現役時代に稼ぐとすると、4,000万円の年俸を8年続けないといけない。その8年を25才から32才とみる。引退後、野球関係の仕事に就く場合は、4,000万円×8年間程度の知名度がないと難しいのではないか。もちろん一律に判断できないが、ほとんどの選手の場合、引退後、新たな職探しとなるのは想像に難くない。

カープの場合2021年の推定年俸は、日本人選手68人のうち、上位14人が4,000万円を超えている。1位が鈴木誠也の3億1,000万円、14位が森下暢仁の4,300万円だ。(参考;中国新聞2020年12月24日)

実績と知名度によるが、多くのプロ野球選手は引退すると転業を余儀なくされる。冒頭に書いた高橋里志のように。華やかだった選手時代と違って、この苦労は報道されることはない。特に学生時代から名前を売った選手は、雇われ仕事に馴染みにくいと聞く。就労はしやすくても、長続きしにくい話を聞く。筆者としては、前途が開けることを祈るばかりだが。

野球を引退して、新たな職業で名を上げた選手に、1975年と76年にカープに在籍したゲイル・ホプキンス(1943年~)がいる。翌77年は南海ホークスでプレーし、三年間で、1318打数372安打.282、69ホームランの記録を残している。75年10月15日、カープ初優勝をかけた巨人戦では、試合を決める3ランホームランを放ったのが印象に残る。

ホプキンスには、二度インタビューの機会があった。90年前後(残念ながら、詳しい資料を残していなかった)京都でと、2013年の初夏広島で、二度とも整形外科医の国際学会が日本で開かれた折だ。彼は、膝専門の外科医になっていた。京都でのインタビューの骨子は、元プロ野球選手で、第二の人生で違う道に進み、成功を収めた―という点だった。挨拶も、そこそこに取材を始めると、一緒にいたホプキンスの同僚の医師は、「君が日本で野球をしていたなんて知らなかった。30分ばかり時間をつぶしてくる」と言って席を立った。

ホプキンスがベンチで医学書を読んでいた話、練習の合間に広島大学に通った話、まだ若かった筆者への言葉として「将来のために、努力を継続することの必要性」などが中心だった(筆者の努力が継続されなかったのは、言うまでもない)。振り返ってみれば、インタビューの内容に、少し掘り下げが足りなかったなと、思いが残る。新たに知ったことは、「三年目に南海でプレーしたのは、カープ退団時にアメリカの大学への入学手続きが間に合わなかった」のが理由というくらいだ。このときの志望大学と同じかどうかわからないが、彼は帰米後、シカゴのラッシュ医科大学で学ぶこととなった。

二度目の広島でのインタビューの折、ホプキンスには養子が何人かいて、このあと合流する予定だと聞いた。何か国に何人いるのか聞きそびれた。このあと会うのは、日本の養子。子どもたちを養育するのが彼の人生観なのか、はたまた宗教観なのか。限られた時間でのインタビューは、存在のふもとの部分を補強するのが難しい。

高橋里志の訃報をきっかけに、野球選手のその後に思いを馳せた。調べてみると、ホプキンスのような医師への転身は、メジャーでは他にも例があった。いや、もっと驚くべき転職があった。サブタイトルにした「原爆スパイ」だ。

モー・バーグ(1902~72年)。彼はボストン・レッドソックスなど、延べ6球団を渡り歩いた。貧打のうえ足が遅かったが、捕球とリードが巧みなキャッチャーだった。ユダヤ系アメリカ人の彼が話した言葉は、9か国語とも12か国語ともいわれている。モーは毎日スタンドで新聞を買い上げ、全紙読み通していた。潔癖症で、読む前の新聞にルームメイトが触れると、新しいものを買いに出た。言語学者が、メジャー・リーグでプレーしていたようなものだった。

1934年11月、読売新聞社が新聞拡販のために主催した第二回日米野球大会に、ベーブ・ルース率いるメジャー選抜軍が横浜港に到着した。モー・バーグは、控えのキャッチャーとしてアメリカ代表チームにいた。全18試合の日本vsアメリカの試合のさなか、モーはグルー大使の娘・ライオン夫人の見舞いに、東京・聖路加病院を訪れた。モーは受付を通り過ぎると病室には行かず、屋上で映写機を回した。このとき撮影した東京の風景は、42年のドゥリットル空襲の資料になったという。その空襲の年、モーは野球界を引退する。

1943年、モーはOSSに参加した。CIA(アメリカ中央情報局)の前身にあたる組織だ。モーはここで、ドイツの原爆開発を調査することになった。当時の原爆開発は、ドイツ、イタリアがアメリカに先んじていると噂されていた。モーの役割は調査とともに、ドイツの原爆開発を遅れさせることにあった。先に開発し得たのは、ドイツか、アメリカか。結果は、みなさんご存じの通りである。

モーは第二次世界大戦後、スパイを引退した。その後の生活は、楽ではなかったという。2018年、モー・バーグの人生が映画になった。『The Catcher Was A Spy』。同年1月、サンダンス映画祭で上映されたが、日本での公開、邦訳はまだない。

《参考》「1934年の地図」(堂場瞬一著 実業之日本社)、「親善野球に来たスパイ」(L・カウフマン、B・フィッツジェラルド、T・シーウェル著 永井淳訳 平凡社)、「沢村英治 裏切られたエース」(太田俊明著 文春新書)。

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