「サウスポー」とは誰なのか?

野球の話である。

サウスポーとは、左利きのピッチャーのことを言う。なぜ左利きの投手をサウスポーというのか、諸説ある。マウンドに立ったとき、左腕(paw=前足)が南側(south)にくるからというのが幅をきかせているが、決め手とはなっていない。

その件は、いずれ誰かが納得できる説を提示してくれると期待して、置いておく。

ここで話題にする「サウスポー」とは、歌のことだ。ピンクレディーが7枚目にリリースしたシングル曲。1976年にデビューした女性デュオは、瞬く間にスターダムを駆け上った。7作目の作品作りは、紆余曲折した。「サウスポー」のタイトルで、作詞家の阿久悠が2曲書き上げた。その2作目が世に知られることとなった。

若い世代は、知らないかもしれない。詞の冒頭は、こうだ。

♪背番号1のすごい奴が相手 フラミンゴみたいひょいと一本足で

この、「ひょいと一本足で」構えるバッターは、誰がどうみても読売巨人軍の王貞治しかいない。だが、王が主人公なのではない。王を迎え撃つマウンド上のピッチャーが、この詞の主人公なのである。

「サウスポー」のリリースが、1978年3月。前年、王はハンク・アーロンのメジャー記録を抜く756号ホームランを放っている。その大打者に相対するのが、この「サウスポー」の登場人物なのだが、一体モデルになった投手は誰なのか。意外とこれが話題にならなかった。

西武ライオンズの永射保(ながいたもつ)が、その人である。

阿久悠がインタビューで答えている。

「1977年のオールスターで、王貞治を三振に切って取ったところに感銘を受けた」。

756号の世界記録となるホームランを打った年のことだ。

オールスター第二戦、永射が王の前に立ちはだかった。この詞の主人公が。

♪きりきり舞いよ きりきり舞いよ 魔球は魔球はハリケーン

結果は前述したとおり、永射の圧勝だった。

72年、永射は広島東洋カープに入団した。前年ドラフトで、3位指名だった。プロのスピードについていけないと知った永射は、すぐに腕を下げた。ヤクルトの安田猛に倣った、変則フォームへの取り組みだった。

一年目は防御率がつかなかった。打者一人に投げて、ヒット一本で一失点。アウトが一つも取れなかったからだ。二年目の防御率は、5.29。やってはみるが、なかなか目が出なかった。

73年のシーズンが終わると、パ・リーグの太平洋クラブライオンズ(のちの西武)に移籍となった。カープでの活躍の場はなかった。

移籍一年目、永射の防御率は8点台だった。翌年も低迷した。

永射保のフォームが名実ともに花開いたのが、77年のオールスター、王の打席だった。三振を奪ったその投球は、左対策のワンポイントリリーフに活路を見つけた永射の面目躍如だった。

本人は、「左の下手投げを習得するのに、4年かかった」とインタビューで答えている。ランニングをかかさずに、下半身を強靭に作りこむ。土台をしっかりさせることで、踏み込んだ後ワンテンポ遅れて腕が出てくるフォームをものにした。

永射のカーブは、左打者の背中から入ってきた。この球が早くに習得できていれば、永射の野球人生はカープがその中心になったかもしれない。だがそうはならなかった。不世出のヒットメーカー・阿久悠の目に留まるには、77年オールスターでの王との対決を待たなければならなかった。その後の永射は、左殺しと呼ばれるようになった。

永射は実に創作意欲をそそる存在だったらしい。

もうひとつ、モデルになった作品がある。野球漫画の名作「野球狂の詩」の水原勇気である。生前、永射は漫画家の水島新司から数日間にわたる取材を受けたことを明かしている。

水原はNPB初の女性選手で、左下手投げからのワンポイントリリーフ。体力がないから、長いイニングが投げられない。たどりついたのが、正体不明の変化球ドリームボール。

「サウスポー」と同じく「野球狂の詩」でも女性として脚色されたが、まさに永射保そのものだった。

水原は、水島漫画の登場人物の特徴である、息の長い選手として描かれた。東京メッツをスタートに、三つの球団に在籍した。最後の球団は、広島東洋カープだった。永射がプロ野球人生をスタートさせた球団である。

永射の話に戻る。

4球団を渡り歩いた永射の通算成績は、606試合登板44勝37敗21セーブ。

選手、スタッフとしての野球人生を終えた永射は、北九州で居酒屋「野球狂の詩」、スナック「サウスポー」を開店した。

2017年、永射は63才で亡くなった。肝臓がんだった。

永射が現役時代に決め球としたのは、左打者の背中から入ってくる変化球。永射はこの球を、広島を離れてから習得した。それゆえに「カープの永射」は、ぼくらカープファンの記憶に残らなかった。アーティストの創作意欲をやたらとそそる「永射保」と、ぼくらは不運にもすれ違ってしまったのだ。

もしこの決め球の習得が、もう4年早ければ。

広島市内のどこかの酒場で、テレビの野球中継を盛り上げたのは……。ピンチを抑えたマウンド上の左ピッチャーを称えたのは……。

球場の観客が一体となって声を張り上げる、「サウスポー」だったかもしれない。

永射が得意とした、左バッターの背中から巻いてくる変化球。あの魔球はハリケーンだったのか、はたまたドリームボールだったのか。

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