インドをモチーフにした作品を描き続け、昨年開催されたG7広島サミットでは、インドのナレンドラ・モディ首相に油絵を贈呈された高山博子さん。今回は、高山さんとインドの歴史や広島とインドの交流状況、今年設立予定である「広島日印協会」などについて聞いてみました。
―高山さんがインドに出会うまでのことをお聞かせください。
私は広島市出身です。私の父は福山市鞆の浦の出身で、子供の頃からバイオリンやアコーディオンを演奏する“文化”が身近な家庭で育ち、父が当時暮らしていた家は現在「平野屋資料館」という文化財になっています。私は文化的理解のある父のもとで育ちました。
幼い頃、私は母の口紅で鏡台に絵を描いていたみたいで、そんな姿を見た父は「博子は絵が好きなのか!」と、お給料をもらったその足でクレパスを買いに向かったそうなんですが、自転車での帰宅途中になくしてしまい、父がすごく悲しんでいたというエピソードがあります。また、父は、オルガンを演奏している姉を見て「この子は音楽の道に進むといいのではないか?」と思ったそうなんですが、その後、姉は実際に音楽の道に進みました。
そんな父のおかげもあり、私は幼い頃から絵のレッスンを受けさせてもらい、絵と共に成長しました。そんな生活を送っていた小学校3年生の時、担任の先生から絵を褒められたことが、とても嬉しく、自然と絵の先生になりたいと思うようになりました。そして、私は小学校6年生の誕生日に父からもらった「油絵」の道具を使い、祖父のお葬式の際の「菊」を描いたことを皮切りに、この頃から油絵を描き始めます。
中学・高校時代は美術部に入部し、大学卒業後、大阪で美術の教師になりました。夢だった美術の教師になることができたのも束の間、25歳のある日、親から、「教師を辞めて広島に戻ってきてほしい」と連絡がありました。楽しかった教職の仕事は辞めたくなかったのですが、父と母の思いに添いたいと思い、広島に戻ることを決めました。
―絵と共生する中でのインドとの出会いは?
大阪で教師をしていた23歳の時に初めてインドを訪問しました。小さい頃に祖母とお寺参りに行っていたことや仏門に入っていた父の影響を受け、「仏陀の生まれた土地に行ってみたい」と思ったことがきっかけです。帰国後に判明したことですが、私の名前「博子」と姉の「真理子」の字にある「博」と「真理」はインド独立の父「マハトマ・ガンジー」の聖書から引用したそうです。この事実を聞いて、「生まれながらにしてインドとは縁があり、訪れることは私の運命だったのね」と感じました。それ以降40年、インドをベースにした絵を描き続けています。
―なるほど。インドとの出会いの後に広島に戻られたと。
広島に戻ってからは、母校・基町高校の恩師からの依頼もあり、46歳になるまでの約20年間、週に1~2回ほど美術の講師を務めました。母校に育ててもらった思いが強く、講師を続けたかったのですが、基町高校に「創造表現コース」が新設され、多くの後輩が赴任してきたこともあり、「私が退いて若い人の活躍の場を増やした方がいい」という思いがありました。同時に“画家として一本でやってみたい”という気持ちが強くなり、退職を決意したんです。
その後はご縁もあって、インドのタゴール大学の集中講義で二度ほど教鞭をとることができ、日本の「わびさび」を教えたく、熊野筆や和紙をインドに持参して「空の世界」や墨絵の講義を行いました。
―講師に画家に家事と、かなり多忙だったのでは?
子供が幼い時は背負ってでも絵を描いていました。多忙な日々を送るうちに、必然的に時間の使い方は上手くなりましたが、忙しさのせいか、30代前半の作品は厳しい表情の絵が多くなっています。自分の生き様が絵に表れていますよね。気持ちだけが先行して技術が伴わない頃は表現の方法に悩みましたが、30代後半になると、絵の中に自分の思いが入り込んでいく感覚を覚えました。
私が絵画を続けることができたのは、理解のある夫の存在も大きいです。お見合い結婚の際、「絵を描いてもいいですか?」と夫に質問すると、快く了承してくれました。心の中で“よかった”と一人呟いたのが懐かしいです。
―インドの女性をモチーフにされた理由は?
今でこそ経済的発展が目覚ましいインドですが、初めての訪問で目の当たりにした貧困には正直かなりのショックを受けました。その一方で、インドの人々の“パッション”(情熱的)な姿や信仰心と共に生きる営みに触れ、精神性の深い豊かな国だと感じました。インドを訪問したことは、自身の生きる意味を問うきっかけとなり、“絵を通して目には見えない精神性を表現したい”という深い思いに駆られました。
女性をモチーフにしたのは、やっぱり自分が女性ということが一番大きいでしょうね。子育てをしていた頃、作品の女性の表情が厳しく描かれている時代もありましたが、歳を重ねるにつれて絵の女性と私の顔が似ていると言われるようになり、姉からもよく言われます。
―絵に込めた思いは?
絵を通して伝えたいことは「生命の輝き、生命への感謝」の一点です。インドの女性の姿を借りて、絵の中に自分自身の生き様を表現しているのかもしれません。私の作品を見た方々が「元気が出ます」と言ってくださることが嬉しいです。
―高山さんは広島とインドの交流にも関わられているそうですね。
今、広島とインドの交流は、かなり盛んになっているんです。2021年8月に赴任された現在のニキレーシュ・ギリ総領事は文化に深い理解のある方で、広島との文化的交流に大変力を入れられており、総領事就任後の2年半の間に西日本の大半を巡回されたほどです。
私が関わった広島とインドの文化交流でいえば、2021年冬、来広されたギリ総領事が広島市長に「広島でインドの作家と高山博子との展覧会を開催したい」とリクエストしてくださり、広島側から「プランを作成してください。サポートします。」と言われたことはとても光栄なことでした。こうして、2022年11月25日から2023年1月20日までの間、広島県立美術館で「日印国交樹立70周年記念特別展 絵画で紡ぐインドと日本のきずな―ウペンドラ・マハラティと高山博子-」というイベントを開催することができました。
また、昨年5月20日には、インド政府から広島市にガンジーの胸像が寄贈されましたし、G7広島サミットの際には、私はインド政府から招待を受け、ナレンドラ・モディ首相に油絵を直接お渡しする機会がありました。贈呈した際にモディ首相から「日本とインドの文化交流プロジェクトを立ち上げたいのでサポートしてほしい」とお願いされたことは忘れられませんね。この他にも、昨年8月6日には、「JMSアステールプラザ」でインドを代表するミュージシャンのイベントを開催するなど、今、広島とインドの文化交流には本当に勢いがあるんです。
―広島に「日印協会」が設立されると伺いました。
私はこれまで、インド大使館主催の「タゴール生誕150周年のシンポジウム」で経験談を話す機会を頂いたり、インド共和国記念日のパーティーに招待していただいたりと、インドに係る様々なご縁を頂いたことから、日本とインドの文化的・経済的な交流に120年の歴史をもつ「日印協会」(東京)と関わるようになりました。
ここ数年、インドとの文化的交流が進んでいる広島ですが、先にも述べたように、昨年には「広島平和記念公園」の対岸にガンジーの胸像が贈られたり、モディ首相が除幕式においでになられたりと交流が更に発展していることから、“今こそ、広島にも「日印協会」を立ち上げなければならない”という強い思いに駆られました。
―協会の役割は?
“経済が発展するところに文化あり”という観点から、経済界の方々にも声を掛け、「広島とインド双方の文化的・経済的振興が進めばいいな」と思っています。設立準備を本格的に進め始め、たくさんの方々が賛同してくださり、順調に進んでいます。
今は私が会長を務めていますが、賛同してくださる会社に、会長と事務局を担っていただけるようお願いしているところです。
―広島とインドをつなぐ第一人者としての思いをお聞かせください。
インドは、文化的歴史のある素晴らしい国です。そして“非暴力”を訴えたガンジーが生まれた地です。ロシアとウクライナのように戦乱の時代にある今だからこそ、「平和の象徴・広島から、ひとりひとりが小さな力を積み重ねて平和への祈りを発信していけるといいな」と思います。そのためにも、「広島日印協会」を設立して末永く交流を深め、後世・若い世代に広島とインドを繋いでいってほしいし、お互いの国が助け合い、高め合える関係になると嬉しいです。協会の設立によって、日本とインドが互いに理解し合え、平和文化が栄えることを願っています。
●プロフィール
高山博子(たかやまひろこ)
1958年、広島県広島市生まれ。画家、「広島日印協会」代表。