「里山」の社会学・生態学

いきなりの訂正からで恐縮ですが、前回の記事で時系列的に誤りがありました。私が乗鞍にバイトに行ったのは3年次ではなく2年次でした。つまり、丸一年圧縮されておりました。バイト後から一年間は学生生活が充実していて研究対象を絞り込めないでいたとご賢察、ご笑覧ください。ただ、今後も古い記憶を辿る場面ではこういうことが起こりうること、また記憶の繋ぎ目を多少なりとも円滑に修正する場面もありえること、どうぞご了承ください。

さて、「とある研究室」のドアの前に戻ります。秋の夕方の薄暗い廊下を歩いて研究室のドアを開けると、そこには既に十数人の先輩方が集まって、ワイワイガヤガヤと歓談(お酒も入っていたかも、いや確実に)していました。私は一瞬怯みそうになりましたが、誘ってくれた先輩が気付いて手招きしてくれて中を通ることができました。

先輩のところに行くと、その場にいた先生を紹介してくれました。植物生態学を専門とされ、植生調査の現地演習で引率していただいたことがあった当時助教授のN先生でした。本当はイニシャルを使ってもバレバレな著名な先生なのですが、細かな場面ごとに掲載の了承を得るのもたいへんなので当面は匿名でご登場いただきます。

先生といってもまだ若々しく、他の学生や院生のお兄さん的なフレンドリーな印象でした。最初の挨拶も特に硬い詳しい話はせずに、のちに口癖だと知った「オーケー」から始まり「君のことは聞いてるよ、よろしく」程度の会話だったと思います。

後で詳しく知りましたが,私が訪問した研究室は、進化生物学を専門とされる教授の先生を筆頭にグループ、いわゆる小講座を作って教育・研究活動をされていました。そのため研究室の学部生と院生の縦の繋がりが強く体育会系なノリで、特に当時の先輩方はかなり個性的な人が多かったです。※実際に研究室でサッカーの学内カップ戦に出場したのが次の写真。

特に印象に残っているのは韓国からの留学で博士課程におられたHさん(実は韓国と日本のアカマツ里山林を研究されていた。現在は韓国の国立大学教授)でした。ちょうど私も人文地理学の授業の演習で、韓国に5日間ほど調査旅行へ行って帰ってまもない頃で、韓国の地域社会や自然の話で初対面とは思えないくらい盛り上がりました。※次の写真は当時の釜山の活魚をイートインできる魚市場。筆者一番手前。

その盛り上がりのまま、研究室の先生・先輩十数人と大学正門隣にいまも存在する名物居酒屋に行き、そこからN先生とHさんを含む少人数で先生行きつけの小料理店に流れて、先生が酔い潰れるまで酒宴が続きました。先生がふらふらと帰った後、なぜかその店の大将(のちにHさんのお義父さんとなる方)に連れられ、近くの川の橋の上で寒さに震えながらハゼ釣りをしたことが記憶に残っています。

そんな不思議な濃い夜以降、私はN先生の部屋に出入りするようになり、自分のやりたい研究の話をするようになりました。たぶん、前述のとおり身近な自然と社会との関わりの中で生じる環境問題のことを未熟ながらも語ったのだと思います。

その何度目かの話の中で、「オーケー、君にちょうどいいテーマがあります。里山の生態学です」と提案されました。そう、ここで始めて「里山」という用語に運命的に出会ったのです!確かさっそくその夕方、のちに役員も務めることになる里山保全ボランティア団体の会合に連れて行かれたので、単なる思いつきだった可能性も(笑)。

このような経緯で、私は学部が西条の里山のど真ん中に引っ越した4年次に、主指導を社学のA先生(地域社会学),副指導を自然環のN先生(植物生態学)にお願いできることになりました。しかも社学のゼミではありえなかった,自分専用の机を自然環の研究室の院生部屋内に作っていただきました。もしかすると移転のどさくさ紛れだったかもしれませんが,夜間・早朝もどっぷり研究に浸る環境を手に入れることができたのです。事実、その部屋は学部の建物の中でも不夜城で有名でした。

しかしながら、身近な環境問題を社会学と生態学の両アプローチから捉える手法は、いまとなっては当たり前ですが、まだ「里山」という用語自体の認知されていなかった頃でした。もともと里山という用語の持つ曖昧さに加え、里山を対象とする具体的な研究対象や学術的意義を見出す困難さがありました。そのため、実はチャレンジングなテーマだったことを後々痛感することになりました。

次回は、そうした「里山」研究の苦難と,自分にピッタリなフイールドに出会えたエピソードを紹介します。本題の里山生活術の話には,いつ到達するんだろう…。

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