高校野球部で努力、忍耐、継続を学ぶ
マツダ関連企業を経て35歳で起業へ
早朝から夜遅くまで野球部で3年間野球漬けの日々を送った高校卒業後、地元の自動車部品メーカー・マツダスチール株式会社に就職。18年余り勤務した後、会社勤めに疑問を感じて「自分の力で稼ぎたい」との思いが強まり独立を決意しました。その後、運送業などを行っていた父親の仕事を手伝いながら開業準備を進め、2023年10月に個人事業で3R(スリーアール)を発足。現在は広島市および近郊エリアで引越し、不用品回収、遺品整理、残置物撤去などの業務を手掛けています。35歳で起業して丸2年過ぎたところで、まだまだ過去を振り返るほどの実績や足跡もないのですが、これから事業を進めていく上で文字通り自分の履歴書、言うなれば名刺替わりの自己紹介として今日まで歩んできた道をお伝えしてみようと思います。10年先、20年先、そして30年先、わたしの人生にどんな出来事が追加されているのか?まずは有冨一貴と3Rのプロローグとしてお見知り置きいただければ。
呉市で生まれ育つ
わたしは1988年(昭和63年)2月19日、呉市両城町で生まれました。家族は自営で配送業を営む父と母、2歳下の弟とその下に妹が2人。4人きょうだいの長男です。幼い頃のことはあまり憶えていませんが、呉市内から海に通じる二河川の川べりにある山手幼稚園に通いだすと、やんちゃなガキ大将というほどではないのに先生によく叱られていた気がします。それは呉市立両城小学校へ上がっても同じで、自分では悪いことをしているつもりはないのだけれど、好奇心が旺盛なせいか?ついつい叱られるようなことをやってしまうんです。ある時は、大人がタバコを吸う姿を見て、どうしても真似してみたくなりました。子ども心に興味があっただけで、中学生や高校生が不良を気取ってタバコを吸うのとは違い、1本くわえてゴホンゴホンと煙にむせたくらいですが、何しろ小学生ですからね。先生に見つかって大ごとになり、校長室に呼ばれて大目玉をくらいました。今思えば、叱られて当然です。
小学生の時は(その後も⁉)全く勉強はしませんでしたが、運動神経は良い方だったので3年生からはミニバスケットボールに熱中していました。ミニバスケを始めた切っ掛けは、呉市出身で後にプロバスケットボールの選手として活躍される仲摩純平さんという一学年上の有名人の存在です。当時は仲摩さんのお父さんがコーチとして地元でミニバスケの普及に力を入れられていたこともあり、呉市の小学生の間で大人気のスポーツになっていたんですよ。遊びや体育の授業とは違うミニバスケという競技を通じてチームプレーの楽しさを学ぶことができました。
小学校を卒業し、呉市立両城中学校に進学するとなんとなく野球に興味が湧き、軟式野球部に入部しました。父が並外れた野球好きだったので、その影響もあったかもしれません。父本人も昔、野球をやっていたようですが、熱烈な巨人ファンであると同時にプロ野球はもちろんのこと、高校野球、大学野球、実業団に至るまで野球に関する情報なら何でも詳しく、ドラフトの時期が来ると自らの知識を駆使して選手の入団先を予想するなど、言うなれば野球オタクそのものでした。わたしに父ほどの情熱があったかどうかはともかく、野球部に入ったことでミニバスケとは、また違うチームメートとの連携や忍耐の大切さ学んだと思います。ただ、野球部の活動以外の中学時代は小学時代にも増して学校ではよく叱られていましたね。というのもわたしと仲良くしてくれていたのが“ワル”で名高い先輩ばかり。いつもつるんでいたのでワル仲間の一員のようにみられて、ケンカやもめ事に巻き込まれることが多かったんです。自分が率先して悪さをしたいというわけでもなく、周りに流されて行動を共にするだけの中途半端な不良だったと思います。そして高校受験を迎えるわけですが、中途半端な不良を続けるよりもクラブ活動で培った「野球で勝負したい」という気持ちが強まり、野球の強い学校への進学を目指すことになりました。
高校時代は野球部ひとすじ
野球の強豪校を選んで受験した結果、進学先となったのは呉市内の高校ではなく、広島市内南区の広島県立広島工業高校建築科です。念願叶い、入学してすぐ硬式野球部の門を叩くと、同期で入部したのはなんと約50人。その時は、まだ野球部に入部したことで自分の生き方を根本から変えるような経験をするとは思いもよりませんでした。わたしの高校時代は、部活の合間に先輩とつるんで不良の真似事をしていた中学時代と一変して、朝から晩までとにかく野球漬けの日々、このひと言に尽きます。当時の広島工業高校野球部は、毎日、朝の7時から授業が始まる8時までが朝練(朝の練習)、授業を終えた午後4時前頃から夜の帳(とばり)が下りた8時くらいまでが全体練習、その後は自主練習というスケジュールが基本でした。
学校の授業がない土日ももちろん練習するのが当たり前で休みなんて1年を通じて正月に4~5日獲れる程度だったから、年間360日くらいはグラウンドにいたと思います。わたしは、呉市の自宅から通学していたので朝は始発電車に乗らないと朝練に間に合わないため家を出るのは早朝5時すぎくらい、放課後の全体練習や自主練を終えて帰宅するのは夜の9時とか10時でした。早朝から夜遅くまで休みなく続く過酷な練習に耐えきれず、50人いた同期入部者も1人、2人、3人と…どんどん辞めてゆき、いつの間にか20人を切るくらい。ちなみに、わたしは周りの野球エリートの部員に比べて中学時代からそこまで必死でやってきていないので、レギュラーになれるはずもなく、ずっと補欠のままでした。
さて、この頃を振り返ると一番しんどかったのは練習よりも規律を守ることや上下関係の厳しさだった気がします。例えば、部員は短く刈り揃えた坊主頭でいることや、夏場にいくら喉が渇いても許可がなければ冷水器の水も飲んではいけないといった、野球部の行動基準や規則が定められており、絶対に従わなければいけません。とりわけキツかったのは学校の昼休憩の間の日課であるグラウンド整備の時間でした。午前と午後の授業の間なのでユニフォーム姿ではなく、制服を着たままグラウンドの地面をならすのですが、整備が終わった頃に始まるのが恒例の先輩たちによる恐怖の説教タイム。わたしたち下級生を整列させて「お前ら最近調子乗っているんじゃないか…」とか切り出すと、罰ゲームさながらにホームベースからライトまで約90mの全力ダッシュを命じるんです。全力疾走を想定した制限タイムもあるのでチンタラ走るわけにはいかないし、太って足の遅い部員などがタイムに遅れると連帯責任として本数が追加されることから、結局10本~15本は走らされることに。制服を着たまま、汗だくになってOKが出るまで全力疾走しなければならない辛さは経験した者にしかわからないでしょうね。
最近は高校野球部でパワハラや暴力事件などが世間を騒がせていますが、入部して以来、軍隊並みの規律や上下関係を叩き込まれ、それが身に染みた自分たちからすれば、正直なところ、殴られる方がまだ楽だと思います。説教タイムの後の全力ダッシュ然り、先輩がいいというまで酷い時は何時間も手足を揃えてランニングさされて、この苦行がいつまで続くのか…と歯を食いしばって頑張っていたのを思い出すと、殴られるのは一瞬のことだし、痛くても終わりがありますから何でもない。それにしても補欠なので試合に出場して活躍できるわけでもないのに3年生の夏に引退するまでよくもったものです。なぜだかわかりませんが、毎日辛いし、しんどいのに野球部を辞めようとか、辞めたいという考えは一度も湧きませんでした。厳しい環境から逃げなかったおかげで努力と継続することの大切さが身につき、その後の自分の人格形成の基盤になっているので結果的には良かったのでしょう。ところで、当時は鬼か悪魔のように感じていた野球部の先輩たちとは今も付き合いがあるんですよ。メチャクチャしごかれたけど、卒業後も何かと気にかけてくれる先輩もいるし、野球部で同じ時間を共有した同志として酒を酌み交わしながら「あの頃はこうだった、ああだった」と言い合える関係になれたのは嬉しい限りです。
マツダスチールへ就職
ほとんど野球部一色の生活で中途半端な不良どころか、普通の高校生のように女の子と遊んだりする暇もなかったわたしですが、3年夏の引退と同時に進学か就職かの進路を決める時期を迎えました。自分なりに両親が離婚した家庭の事情など、経済的な負担も考慮して進学を諦め、就職を選んだものの、特に「これがやりたい」という仕事や勤めたい会社もありません。一応、学校は建築科でしたが、野球三昧でろくに勉強もしていないし、建築系の会社は無理だろうなと考えていたら、野球部の活動を3年生で引退するまで地道に頑張ったのが評価され、内申書を優遇してもらえたんです。学校の就職部に求人が届いて推薦された会社の中からクラスメートに勧められて面接に赴いたのが地元の自動車部品メーカー・マツダスチール株式会社でした。
マツダスチールは、自動車用薄板鋼板の加工・販売を行う地元では知名度がある企業でしたが、運よく採用が決まり、入社後は安芸郡坂町の本社製造部に配属されました。製造現場の技術職として勤務することになったので通勤に便利な本社の近くにアパートを借りて社会人生活の幕開けです。高校を出たばかりで右も左も分からないまま、現場にでましたが、ひととおり仕事に慣れてくると業務に必要な天井クレーン・アーク溶接などの国家資格を取得したり、現場作業だけでなく製造チーム全体の生産性・安全性・品質向上に貢献できるように学生時代と打って変わって勉強に励みました。18歳で入社して以来、18年余りお世話になりましたが、在職中は製造工程における不具合箇所の改善提案、安全対策の工夫といった現場の改善に取り組むほか、QC手法(品質管理)やKYT(危険予知トレーニング)の講習にも参加してデータ分析やリスク対策の知識を身に付けて〝現場の見える化〟と“仕組みづくり”を意識した活動を続けるなど、仕事に手応えを感じて努力を惜しまず、働きましたよ。
話は戻りますが、新入社員の時は高校野球部の厳しい日常から解き放たれたこともあり、その反動で仕事が終わると合コンや遊びに飛び回ったものです。入社して3、4年経ったある日、会社の先輩から紹介されたのが現在の妻でした。自分とは全く縁のなかった音楽大学出身で企業の吹奏楽団のフルート奏者だった彼女となぜだか波長が合い、25歳でめでたく結婚したわけですが…。結婚を機に安芸区矢野に引越しして新居を構え、ひと月ほど経った頃に困った事件が起きてしまいました。
独立、新たな挑戦へ!
実は、その頃までのわたしは若気の至りもあってか?道理が通らないことに「わかりました」と素直に従えない自我が強い性格だったんです。学生時代も意見が食い違う同級生と、よくケンカしていましたからね。仕事の上でも「これだけは譲れない」と思うと主張を曲げないため、何かの折に1歳年上の同じ部署の先輩と口論になり、つい勢いでポカリと殴ってしまいました。若い社員同士のケンカとはいえ、勤務中の暴力沙汰なので大ごとになって手を出した方のわたしは懲罰で減給を命じられる羽目に。新婚早々、1年くらい薄給を余儀なくされ、妻には迷惑をかけてしまいました。
そのトラブルのタイミングで会社を辞めようかとも思ったのですが、辞めたところで当時の自分に何ができるわけでもないし、ちょうど長男が生まれたことや、何かと気にかけてくれる先輩の存在もあったので、ひとまず踏みとどまりました。以後、月日が過ぎて行く中で仕事自体にはやりがいを感じていたけれど、心のどこかに辞めたい気持ちもあったようで、その引き金になったのが2018年7月の西日本豪雨災害の日の出来事です。わたしは当日の夜勤に備えて自宅で寝ていたところ、矢野地区も集中豪雨に見舞われて川が氾濫し、地域一帯が大変危険な状況でした。妻はもとより、近所に住む会社の先輩からも「今日は危ないので外に出ない方がいい」と出勤を止められたので、とりあえず上司に連絡してみると「いま手掛けている仕事が納期に間に合わないので、どうにかして出て来い」との非情な言葉が返ってきました。その上司も普段は嫌な感じの人ではないし、非常時でも職務を全うする立場としての発言だと理解はできるのですが、自分とすれば「命の危険を感じるほどの自然災害が起きているのに、ふざけたことを言うな」と腹が立ち、結局は出社しませんでした。
この出来事を境に30代半ばに向かう自分の年齢を考えると会社にいる限り、10年先、20年先にはわたしも上司のようになってしまうのが嫌でたまらなくなったんです。組織に対する疑問など様々な思いが頭を過ぎり、悶々とする日が何年か続いていくと、上司が部下の1年間の活動や仕事ぶりを評価する定例の中間査定で個人面談をする日が訪れました。上司が部下をA、B、C評価で査定し、評価の低い者はランクを上げるための課題や指示を告げられるわけですが…。上司からの要求をあれこれ聞いているうちに思わず、わたしの口をついて出たのは「そんなんだったら会社を辞めます」というひと言でした。誰にも相談せず、わたしの胸の内でくすぶっていた火種が大爆発した瞬間です。これから何をすべきなのかは、まだ決めていないけれど、スッキリした気分で長らく務めた会社を後にすることになりました《後編に続く》
《有冨一貴(ありとみ かずたか)PROFILE》
スリーアール代表。1988年(昭和63年)2月19日生まれ。広島県呉市出身。
広島県立広島工業高校建築科卒業後、マツダスチール株式会社に入社。本社製造部で製造現場の技術職として製造工程における不具合箇所の改善提案、安全対策の工夫など現場の改善ほか、QC手法(品質管理)やKYT(危険予知トレーニング)の講習に参加してデータ分析やリスク対策の知識を身に付け、〝現場の見える化〟と“仕組みづくり”を意識した活動に取り組むなど、約18年間の勤務を経て退社。2023年10月、個人事業として広島市を拠点に引越し、不用品回収、遺品整理、残置物撤去などを手掛ける「3R(スリーアール)」を創業。趣味はゴルフ、筋トレ。
【事業概要】
屋 号 スリーアール
代 表 有冨 一貴
所在地 広島市安芸区矢野西3-69-2
創 業 2023年10月
業務内容
〇引越し(単身・家族・長距離) 〇公務員向け引越し(自衛隊・警察・消防・市役所)〇不用品回収・家財整理 〇遺品整理・生前整理 〇残置物撤去・ゴミ屋敷清掃 ・ハウスクリーニング(入居前・退去後) 〇法人向け撤去・移転サポート
〇軽貨物運搬・スポット便
所有資格
・古物商許可証 第731072400003 ・天井クレーン ・玉掛け ・アーク溶接・動力プレス
特 徴
「現場経験18年の安全・効率・品質管理」「引越し〜撤去〜清掃まで一社完結」
「公務員・法人案件に柔軟対応」
■3Rホームページhttps://www.three-r0901.com/
■3Rインスタグラム https://www.instagram.com/three_rrr0219/
■有冨一貴 https://www.facebook.com/share/1HQvD7mR3t/