飲食業には人を元気にする力がある!
医療機器メーカー勤務を経て夢に挑む
子どもの頃から向上心が希薄で自分の意志で動くことの少なかったわたしが医療系大学に進学し、仲間と交流を深める飲み会などを通じて「飲食業には人を元気にする力がある」ことを知りました。大学院で学んだ後、在学中に取得した診療放射線技師の資格を活かせる医療機器メーカーに就職したのですが、飲食業への憧れや思いは募るばかり。結局、9年間お世話になった会社を退職し、当時の勤務地だった東京の老舗鉄板焼きの店での修業を経て、故郷・広島で平成31年(2019年)に“広島牛のステーキ”を看板に掲げるレストラン「ステーキ青ひげ」をオープンしました。全くの畑違いから飲食業へ転身、熱い思いだけで休む間もなく、突っ走ってきて早いもので6年。現在は、組織を法人化して広島市内で焼肉店や精肉店、総菜・弁当を扱うデパートのテナントなど6店舗の他、広島牛オンラインストアの運営なども手掛けています。起業して様々な経験を積んだことにより、これからやってみたいことや新たな目標もできました。まずは、飲食業らしからぬ店名「青ひげ」の由来をはじめ、今日に至るまでのわたしの足跡をお伝えしていきます。
“筆の里”熊野町出身
わたしは昭和58年(1983年)6月1日、“筆の里”として知られる安芸郡熊野町で生まれました。家族は、呉市の日新製鋼に勤める父と地元産業である熊野筆の筆職人の母、二歳年下の弟、そして祖父母の6人。我が家は、周りを田畑に囲まれたのどかな住宅地にありましたが、母の話によると、幼い頃のわたしは大病こそしないものの、すぐに熱が出て扁桃腺が腫れるなど身体がとても弱く、外に出て元気に走り回って遊ぶよりも部屋の中でミニカーを並べて遊ぶ方が好きな子供だったそうです。男ふたり兄弟の長男なのに腕白どころか女の子のように大人しく育ちました。家の近所の淳教幼稚園から熊野町立熊野第一小学校に上がると算盤と書道の習い事に通うことになったのですが…。どちらも親に命じられて始めたものだし、もともと手先が不器用なせいか、なかなか上達しませんでした。ただ、コツコツ作業を続けることは嫌いではなかったので、書道は3~4年で通うのをやめて1級止まりでしたが、算盤だけは身体や手や大きくなるにつれ、指が思うように動かなくなる中学3年生まで9年間続けて上級者とされる準段まで取れたんですよ。今でも計算するのは得意で仕事に役立っています。
一方、小学校時代は友だちも増え、自宅から学校の校庭が近いので習い事がない時は屋外での遊びも好むようになりました。体格の方も4年生くらいまでは太っていたのですが、それから痩せて身長も伸び始め、運動神経は普通ながら足だけは速かったんです。放課後は友だちと校庭に集まって玩具のカラーバットを使った野球に熱中したり、定番のドッジボールや当時流行っていた漫画「スラムダンク」の影響でバスケットボールなどをして遊ぶ機会が増えました。
小学生の時に遊びを通じて身体を動かす楽しさを知り、熊野町立熊野中学校に進むと、クラブ活動では軟式野球部に入部することに。安芸郡の大会などでも好成績を残す野球部とあり、部員も3学年で50人くらいいました。わたしの守備はファーストで、たまにピッチャーもやっていましたが、言うなれば補欠です。部員の誰もがレギュラーを目指す中、自分はみんなと野球を楽しむのが好きなだけで「上手くなりたい」とか「レギュラーになりたい」といった向上心が全くないので、あまり気になりません。わたしの場合、小さい頃の算盤や書道の習い事も自分の意志ではなく親から「行け」と命じられたから通ったし、学校やクラブ活動にしても周りから「学校に行け」と言われるので通う、友だちが「何かしらのクラブに入る」と言うから軟式野球部入部するといった具合でしたからね。自分の意志ではなく、そうするのが“義務”だと思っていたので向上心が湧かないんですよ。この性格は大人になってもずっと変わらず、自発的に「どうしてもこれがやりたい。もっと頑張らねば!」と前向きな向上心を持って取り組んだのは、現在の仕事が初めてかもしれません。ただ、義務とはいえ、ひとまず身を置く場所が決まれば、何事もコツコツやるタイプなので遅刻やズル休みは絶対にせず、真面目に取り組んでしまいます。不器用ながら地道に続ける性分のおかげで授業にも集中するせいか?学習塾に行かなくても小学校・中学校を通じて勉強の成績は良い方でした。
高校卒業、そして大学受験
先生からは高校受験にあたり、広島市内の私立高校への推薦入学も打診されたのですが、同級生の仲良しと離れるのが嫌で自宅からバス1本で通える広島市立安芸南高等学校普通科へ進学しました。高校では、やはり何かクラブ活動をやった方が良いとのことで、中学時代に仲の良かった友人がいたから何となく陸上部に入部。彼がやり投げの選手だったので、わたしもやり投げをすることになりました。子どもの頃から足が速かったのと中学で軟式野球をやって肩が強かったので、この種目には向いていたみたいです。しかし、自分から「やり投げがやりたい」という強い意志で入部したわけではないため、記録を伸ばす向上心もなく、過酷な練習をすることもなし。県大会にも出場しましたが、成績は中の中くらいが関の山でした。ともあれ陸上部では、やり投げ以外にもリレー選手のピンチヒッターで走らせてもらったり、3年間、楽しい時間を過ごした気がします。
高校時代も学業の方はそれまでと同様に真面目に取り組んでいました。3年生になって進路を決める時期を迎えると、相変わらず、特にやりたい目標がないわたしに対し、両親は自分たちが大学に行ってない引け目もあるのか?大学進学を強く望んできたんです。仕方なく「大学に進学してどこかの会社に就職して欲しい」という両親の願いに従うことにして、強いて言うなら小さい頃から旅行や遊びに連れて行ってもらったこともあり、旅行に携わる仕事が印象に残っていたので、将来その道に通じそうな大学を探してみました。そして見つけた広島修道大学国際政治学科を受験したところ無事に合格、晴れて親の望む大学生になれたわけですが…。
医療系大学に転入し、大学院へ
熊野町から広島市に通う大学生活がスタートしたものの、自分が期待していたような授業は少ないし、クラブ活動もしていなかったので合コンや飲み会、大学の近くにあった居酒屋のアルバイトに追われる日々が続きました。アルバイトでお金を貯めて大学のある安佐南区で1人暮らしを始めたのはよいけれど、夏休みに突入する頃には「このまま4年間を過ごしていくと時間も親に出してもらう学費も無駄になるのでは?」との考えが頭を過ぎりはじめたんです。あれこれ考え出すと不安は募るばかり。思い切って出身高校の安芸南高等学校へ他の大学への転入の相談に行き、自分が得意な英語が試験科目であることや、将来活かせる資格が取れることなどを踏まえて広島国際大学診療放射線学科を受け直すことになりました。高校の先生から転入の話を伝えられて驚いた両親も、この大学は東広島市黒瀬町にあるので熊野町の自宅から通えることや、祖母が原爆被爆者だったので「診療放射技師の資格をとってそんな人たちのお役に立ちたい」というわたしの志望動機を聞いて納得してくれた次第です。結局、広島修道大学は1年間籍を置きましたが、6か月通っただけで残りの半年間は転入試験に向けての勉強に励み、なんとか合格することができました。在籍期間は短かったけれど、修道大学時代の友人とはいまでも親しく交流しています。
こうして広島国際大学で第2の大学生活が始まったわけですが、正直に言うと受験する際の理由に挙げた自宅通いの利点や被爆者の祖母の話は全部建て前です。ホントはやりたいことが見つからないので、卒業後に働くのならば「世の中で一番ラクな仕事に就きたい」と考え、思い浮かんだのが小学4年から6年生まで3年連続で骨折して通った時に目にした病院のレントゲン技師の仕事でした。技師の人が患者さんに「はい、息を吸って、止めて」と伝え、カシャッと撮影機器を操作する光景を見る度に「こんなラクな仕事はないだろうな」と安易に考えていたんです。この大学で診療放射線技師の資格を取れば、そのラクな仕事に就けると考えたわけですが、勘違いも甚だしく、実際に入学して学んでみると、診療放射技師資格を取得するためには、放射線の画像を扱う機械の全ての知識が必要でした。超音波、エコーとかCTスキャン、MRI、カテーテル検査の血管造影装置、PETなどの仕組みや操作をマスターしなければならず、生半可な勉強では追いつきません。
診療放射線技師の勉強を学んでいくと、当初は大学を転入するための口実に使った祖母のこともよく考えるようになりました。祖母は爆心地に近い千田町で被爆しながら、かろうじて生き残ったものの、わたしが物心ついた時から松葉杖をつくほど足が不自由で頻繁にがんにかかるなど、70歳くらいで亡くなりましたが、原爆の後遺症に悩まされ続けた姿を思い浮かべると、自分も早く技術や資格を身に付けて診療検査ができるように頑張らないわけにはいきません。祖母への想いも拍車をかけ、コツコツ勉強するのは昔から得意なので診療放射線技師免許を皮切りに、2年生の時に第2種放射線取扱主任者免許、3年生で難易度の高い第1種放射線取扱主任者免許を取得できました。自分がやりたい仕事かどうか?は別にしてこれらの資格を所有していれば、原子力発電所などに勤めることも可能なため、先を見据えて診療放射線技師の資格を取っておくという点では、この大学に転入した意味があったようです。
広島国際大学時代は忙しい学業の傍ら、コンビニ店員を主体に、旧広島市民球場でのビールの売り子、グリーンアリーナで行われる浜崎あゆみさんのコンサートの設営スタッフなど、多種多様なアルバイトにも励みました。わたしは物欲がないのでアルバイトで稼いだお金はほとんど友人との飲み代に回します。資格を取るため必死で勉強する毎日なので、大学の仲間と居酒屋に集まり、みんなでワイワイお酒を飲むのがとにかく楽しかったんですよ。居酒屋や飲食店に集うごとに「みんなが笑顔で楽しめるこんな場所がつくりたい」との気持ちを抱くようになり、調子に乗って「いつか沖縄で居酒屋を開いてみせる!」なんて周りに口走っていたことも。大学生の時に飲み会を通じて自分の胸の中に生まれた拙い思いが、会社を興して飲食業に従事する今につながっていくとは…人生わかりませんね。
こうして大学生活は順調に進み、3年生の後半くらいからは卒業後の就職向けて病院での実習が始まりました。この学部の卒業生の99%が病院に就職するのですが、わたしは実際に病院で働いてみて、院内の閉鎖的な空間の中で一生働くことや、常にお医者さんが組織のトップでその決めごとに従って働くという空気にどうも馴染めなかった。病院には就職してもうまくいかないと思う反面、やりたい仕事や会社もすぐには思い浮かばないので就職を先延ばしするような形で大学院に進むことを決めました。実に親不孝な息子ですよね。いつか恩返ししないとマズイな。
医療機器メーカーへ就職
修士課程を選んで2年間通った大学院在学中は、大学卒業する時点で取得していた資格があるので健康診断バスでの巡回検診や脳ドックなどを行うクリニックで技師のアルバイトも経験しました。就職を先延ばししたものの、医療現場に赴く度にやはり放射線技師として病院では働きたくないという気持ちが揺るぎません。再び進路を決める時期を迎え、選択肢として悩んだのがどこかの会社に就職して社会人になるか?医師になるか?の2つの道でした。後者については、「仮に病院で働くとすれば放射線技師ではなく、立場が上の医師なら良いのかもしれない」との考えが浮かび、遠回りにはなるけれど医学部への転入を見据えて、ある大学の医学部の試験を受けていたんです。流石に医大への転入となると、急な思いつきでもあり、付け焼刃の勉強では歯が立ちませんでしたが、あとから考えてみると勉強にも身が入っていなかったと思います。なぜなら、大学時代から「みんなが楽しめて、笑顔になれる場所を作りたい」と考えていたわたしからすれば、病院や医師を頼って足を運ぶのは病や怪我で体調の悪い患者さんに限られますが、自分が求めていたのは老若男女の誰もが集って楽しく笑顔になれる飲食店や遊園地のような場所なので「是が非でも医者になりたい、試験に合格したい」という気持ちが足りていなかったのでしょう。まあ、わたしみたいな人間が医師になってはいけないし、なれるわけもありませんが。
というわけで医者の道が閉ざされ、就職先を探すことに。いずれ興味のある飲食店なりサービス業の道に進むにしても社会勉強やお金を貯める必要があるので、たちまち会社ならばどこでも良いと思って教授に相談してみると、「せっかく資格があるのだから放射線技師の資格を活かせる会社がどうか?」とのこと。アドバイスされた通りに医療機器メーカーを2社受けて、東芝メディカルシステムズ株式会社に採用されることになりました。2009年4月に入社、栃木の大田原市で9カ月間研修した後、翌年1月に広島市の中四国支社に転勤すると、医療機器の資格を有する営業推進部の技術営業スタッフとして中四国地区の大学病院や市民病院を担当し、飛び回る日々の始まりです。広島を拠点に中四国9県の顧客先を週末までホテル暮らしをしながら車で営業するハードな仕事ですが、時間を見つけては香川でうどん、高知で鰹のタタキといったご当地グルメを堪能したり、忙しいけれど、楽しく充実した毎日でしたね。
中四国支社で6年ほど経った頃、入社以来、わたしに目をかけてくれていた社内でもエース格の先輩の後任として東京の首都圏支社に異動することになりました。首都圏支社では東京と千葉を担当しましたが、中四国エリアよりも商談のスピードが速いというくらいで業務自体は都会も地方も変わりません。しばらく経つと、地方と都会の暮らしも経験したし、そろそろ「みんなが楽しめて、笑顔になれる場所を作りたい」という昔からやりたかったことに踏み出したくなり、東京に呼んでくれた先輩たちに退職する意向を伝えてみたんです。本人としては飲食店のどこかで修業するにしても会社を退いて“0か100か”の状態に身を置かないと、これまでお世話になった会社にも失礼だと思ったのですが、退職の理由を聞いた先輩からは「仕事が終わった後や休日に情報収集したり、飲食業について勉強した上で、それでもやりたいと思ったら会社を辞めればいいんじゃないか」と引き留めてくれました。悩んだ末に、そのお言葉に甘えて会社に在籍したまま、飲食店でアルバイトする流れに。当時、会社は副業禁止でしたが、先輩たちは、きっとわたしがダブルワークしているのを察していたんだろうに、何かと便宜を図ってくれたんですよ。こうして退社後と休日は、都内の飲食店で修業することになった次第です。《後編に続く》
《谷太輔(たに だいすけ)PROFILE》
青ひげ株式会社 代表取締役。1983年(昭和58年)6月1日生まれ、広島県安芸郡熊野町出身。広島県立安芸南高等学校卒業後、広島修道大学国際政治学科を1年で中退し、広島国際大学診療放射線学科へ編入し診療放射線技師資格を取得。広島国際大学大学院卒業後、東芝メディカルシステムズ株式会社入社し、中四国支社及び首都圏支社に勤務。学生時代に確信した「飲食業には人を元気にする力がある」という熱い想いから飲食業への転身を図るべく、9年間勤務した同社を退社して東京の老舗鉄板焼き店で修業。平成31年(2019年)2月に故郷・広島で“広島牛のステーキ”が看板のレストラン「ステーキ青ひげ」をオープン。2021年に法人化し、青ひげ株式会社設立。現在は広島市内で精肉店や総菜・弁当を扱うデパートのテナントなど6店舗の他、広島牛オンラインストアの運営なども手掛けている。趣味は仕事、寝ること、温泉、サウナ。座右の銘「凡事徹底」「コツコツは勝つコツ」「他力本願」。
《所有免許・資格》 〇そろばん準段 〇書道1級 〇普通自動車免許 〇中型自動二輪免許 〇診療放射線技師免許 〇第一種放射線取扱主任者免許 〇調理師免許
■会社概要
会社名 青ひげ株式会社(AOHIGE CORPORATION)
代表 代表取締役 谷 太輔
創業 平成31年(2019年) 設立 令和3年(2021年)
資本金 300万円 従業員数 45名
事業内容 ・広島牛鉄板料理店の経営 ・広島牛焼肉専門店の経営・広島牛専門精肉店の経営 ・広島牛弁当、総菜の製造販売・広島牛オンラインショップの運営・その他、広島牛の販売・卸売等
本 社 〒730-0051 広島県広島市中区大手町1-7-23-2F
TEL:082-244-6611
■店 舗
【レストラン】
「青ひげ本店」
〒730-0013 広島県広島市中区八丁堀8-11
TEL 082-211-5811
「ステーキ青ひげ」
〒730-0051 広島県広島市中区大手町1丁目7-23 ラフォーレビル 2階
TEL 082-244-6611
「広島牛 焼肉青ひげ」(青ひげ精肉店含む)
〒732-0824 広島県広島市南区的場町1丁目5-10
TEL 082-262-8989
【弁当・総菜店】
「ビーフ青ひげ」
〒730-0035 広島県広島市中区本通5-12
TEL 082-241-1999
「広島牛青ひげ そごう広島店」
〒730-8501 広島県広島市中区基町6-27 そごう広島店B2F
TEL 082-512-7865
「広島牛青ひげ ミナモア広島駅店」
TEL 082-569-5881
〇ホームページ
◇青ひげ株式会社 https://www.aohige.jp/
◇青ひげ公式オンラインストア https://hiroshimabeef.jp/