旧豊平町で生まれ育った腕白少年が
曾祖父が興した建設会社を引き継ぐ
曾祖父の隅田 文次郎が創業してまもなく100周年(※2027年)を迎える弊社は土木建築工事を皮切りに地域に根付いた総合建設会社として歩みを進めてまいりました。長い業歴の中で様々な紆余曲折がありましたが、4代目であるわたしは、「こんなものがあったらいいな」「“できない”ではなく、どうすれば“できる”か?」と常に前向きな姿勢で取り組んでおります。現在は、太陽光発電事業や防草シート販売も手掛けるなど、公共事業頼みだった体質から脱却を図る一方、自分が生まれ育った町であり、本社を置く山県郡北広島町今吉田地区の活性化を目的に有志の方たちと「一般社団法人北広島デジタル田園開発機構」を発足し、地域創生・インバウンド活性化・スマート農業の整備などを推進する活動に注力しています。子供の頃は、地元でも有名な悪童だったわたしがどんな道のりを経て、会社のために、そして故郷のために頑張るようになったのか?…その足跡を振り返ってみます。
曾祖父が興した隅田組
自分のことを振り返る前に、まずは家業についてお話しします。弊社の歴史は、わたしの母方の曽祖父の隅田 文次郎と祖父の隅田 喜太郎が昭和2年(1927年)に安佐北区三入で立ち上げた「隅田組」から始まりました。ただし、創業年については「もっと前なのではないか?」と言われています。というのも2017年に90周年を迎えた時に昔の資料を探したところ、隅田組が手掛けた昭和6年当時の公共工事「三入村学校橋架換工事渡初式」の写真が出てきました。この写真を見る限り、重機のない時代にマンパワーでこの大型工事を竣工する工期の長さ、そして10億円は超えるであろう工費を回すための期間を逆算すると、昭和2年の創業より前に組織が発足していないと辻褄が合わないんですよ。まもなく迎える創業100周年も実は既に過ぎているのかもしれません。
ともあれ発足後、土木建築業者として公共工事で実績を重ねていくと、その活況ぶりを聞いて多くの政治家が近づいて来るようになったようです。好事魔多し、曾祖父が言われるままに政治家の保証人を引き受けたりしていたことが仇になり、結局、隅田組は倒産する羽目に。2代目の祖父は、ひとまず満州に身を隠し、家族である祖母や幼い母を山県郡豊平町(現・北広島町今吉田)の祖母の実家に移住させ、この地で再起を図ったと聞いています。曽祖父は昭和7年に亡くなり、祖父・喜太郎が三入から拠点を豊平町に移して事業を進め、3代目となったのがわたしの父・隅田衛です。父はもともと豊平駐在所に赴任して来た警察官でした。母と結婚して婿養子となり、数年間、千代田や大朝地区で警察勤務をしたのち、家業に就いたと聞いています。その後、祖父が亡くなった1974年に個人事業から有限会社隅田組へ改組したのを機に、父が社長に就任しました。
幼少時は名うての悪童
1959年(昭和34年)12月14日、その父と母の間に3人きょうだいの末っ子として生まれたのがわたしです。上には姉が2人、初めての男の子なので「可愛がられて優しい良い子に育つだろう」と周りからは期待されていたと思いますが、そうは問屋がおろしません。幼少時からとにかく腕白、というよりも近所でも評判の悪ガキで、同じ年頃の子供を泣かさない日がないというくらいの暴れん坊でした。今でもよく覚えているのが幼稚園の父兄参観日の時のことです。この頃、美容院を経営していた母が忙しいため、祖母が来てくれるのですが、その日も人に悪さをして立たされてしまい、「おばあちゃんに立たされた姿をみられたくない」とヒヤヒヤしましたからね。幼心に恥ずかしい記憶として刻まれているのでしょう。
ちなみに当時の豊平町今吉田は県北の山間部にありながら非常に賑やかで活気のある町でした。家の前には商店街があり、百貨店(雑貨屋ですが)、食料品店、自転車屋、電気屋、美容院、理容院、衣料品店、カメラ屋、化粧品店、食堂のほか、以前はパチンコ屋も2軒あったくらいです。また、わたしが子供の頃、一番楽しみにしていた11月23日に催される「えびす講」なんて、旧豊平町内はもちろんのこと、安佐北区小河内方面など、遠方からも親戚が帰って来るし、露店も20軒ほど並ぶくらいの活況ぶりだったと記憶しています。町の歴史を辿ってみると、今吉田地区でその昔は武田家という一族が栄えていたのだけれど、ある時、吉田家一族の1人が大阪大学医学部に進学して大阪で病院を開業したのち、衆議院議員を務めたのを機に勢力が変わったとか。なんでも、その議員さんが山県郡はもとより高田郡といった近隣の地域に、まだ大きい建物がない時代に沢山の人が集える立派な“公会堂”を建設し、街に寄贈して地域の発展に貢献したんだそうです。これらの功績を称えて「この地域で昔、栄えたのは武田家だったけれど、今は吉田家だよ」という声が高まったのが、現在の“今吉田”の地名の由来だと聞いています。
さて、豊平町立吉坂小学校(2年生の2学期に豊平南小学校に統合)に上がっても、わたしの悪童ぶりは勢いを増すばかりで、毎日のように廊下に立たされ、挙句の果てにそのまま家に帰宅してみたり。もちろん勉強は全くダメでしたが、なまじっか運動神経が良いものだから始末に負えません。身体は小さかったけれど、ソフトボールをやらせたらピッチャーで4番バッターだし、相撲をとれば、勝者の証として土俵の周りに立つ4本の幟(のぼり)のうち、2本は必ず持って帰っていました。ただし、性格は幼稚園の時の延長ですからソフトボールの試合で負ければ、やけを起こしてミスをしたチームメイトにボールをぶつけたり、相撲をとっていて気に入らないことがあれば、相手をいじめて泣かせたり、まさにろくなもんじゃない。
そんなある日、ふと気づいたのが「自分には友だちが誰もいない」ということでした。悪さばかりする普段の行いを考えてみれば、人から避けられるのも当前なのですが、なんだか急に淋しくなり、祖母に「僕の家には誰も遊びに来てくれない」と相談して、近所の親戚の子供に友だちになってくれるよう頼んでもらったんです。この出来事を境に子供ながら、それまでの傍若無人にふるまってきた自分を反省し、人に対して優しくすることや相手の気持ちを考えること、即ち、“人を大事にしないと友だちができない”と気付きました。子供なりに友だちができず、周りから人が離れていく孤独を味わい、人を大事にすることの意義を知った原体験が、仕事をする上でも生きていく上でも今の自分につながっていると思います。
親元を離れた学生時代
豊平町立吉坂中学校(卒業して3年後に廃校)に進学すると、さすがの悪ガキも徐々に心を入れ替えてスポーツに熱中しました。クラブ活動で卓球部に所属したほか、陸上の走り高跳びで県大会に出場したり、毎日の練習で身体を動かしていると、いつのまにか小柄だった身長も伸びてくれました。そして、高校受験を迎えるわけですが、小学時代のわたしの行状を知る担任の先生から「寝た子を起こすことにもなりかねないので、のどかな豊平とは環境が違う広島市内の高校に進学するのは絶対にやめなさい」と伝えられたんです。そのアドバイスにより結局、北広島町内にある広島新庄高等学校に進学することに。同じ町内とはいえ、実家から27㎞ほど離れた広島市と浜田市の中間にある学校なので毎日通学するのは大変なので学生寮に入りました。初めて親元を離れたものの、寮生活では厳しい規律もあって好き勝手は出来ず、先生が危惧した寝た子を起こすことにはなりませんでした。
ところで新庄高校といえば、甲子園でもお馴染み、高校野球の強豪校として知られていますが、わたしが入部したのはサッカー部です。高校3年間は勉強そっちのけでサッカー三昧でした。何はさておき、サッカーが最優先なので放課後のクラブ活動までにエネルギーをしっかり貯めておこうと、授業中は1時間目からずっと寝ていました。寝る子は育つではありませんが、勉強よりもサッカーに打ち込んだおかげで?わたしが2年生の時も県大会のベスト8までは行けたんですよ。こうして高校生活はあっという間に過ぎていき、進路選択の時期を迎えました。幼い頃から漠然と将来、自分が家業を継ぐことは頭にありましたが、中学時代に中村雅俊が主演する学園ドラマを観て、学校の先生の仕事に憧れていたので自分も体験したいと思い、「ひとまず教職課程を取ろう」と大学受験に臨みました。
進学したのは大阪商業大学商経学部経済学科です。スポーツの盛んな大学なので高校時代に続いてサッカー部への入部も考えたのですが、結局は入らず、1~2年生の間は居住先となった学生寮の野球チームで草野球を楽しんでいました。2年生の時は、小学時代のソフトボールと同様にピッチャーで4番バッターです。3~4年生は学生寮を出て、アパート暮らしを始めたのでアルバイトに明け暮れました。いろいろやりましたが、よく覚えているのが心斎橋の「のど自慢道場・泥棒貴族」というパブのバーテンです。当時は「THE MANZAI」が大ブームの頃で、明石家さんま、太平サブロー・シロー、オール阪神・巨人といった芸能人もよく訪れる大人気の店で、夜中まで働くのはしんどかったけれど、楽しいバイトでした。一方、大学進学の目的だった教職課程は、母校である新庄高校に教育実習に赴いて無事に取得できました。教師にはなれませんでしたが、貴重な経験であり、良い思い出になっています。
建設業を学ぶ
大学卒業後は、いずれ家業に就くことを見据えて土木建築業の基礎を身に付けるため、兵庫県の修成建設専門学校に入学しました。2年制の専門校でしたが、学ぶことが専門的過ぎて、あまり意味がないと思い、1年で中退したんです。その後、実務を学ぶのはやはり現場に入るのが近道なので、呉市の伸和産業株式会社を紹介していただき、入社することに。この会社は法面工事を主業務とする建設会社でしたが、1年ほど経つと、実践的なことをもっと身に付けておきたくなり、島根県邑智郡石見町(現・邑南町)の災害復旧工事の現場への出向を志願したんです。現地では元請けの監督として、丁張掛けから測量、写真に至るまで管理業務全般を担当し、下請業者さんたちとも交流を深めるなど、現場の実務をしっかり学ばせていただきました。
伸和産業で2年余り過ごした頃、父から「そろそろ家に帰ってきてくれないか」と連絡がありました。わたしが中学2年生の時に祖父も亡くなっていたし、父も煩雑な仕事が増える中、身内を頼りにしていたのでしょう。自分としても島根県の災害復旧工事の現場などを経験して土木建築工事について、少しは知識を身に付けた自負もあったので、この要請に応じることを決めました。いよいよ、曽祖父が興し、祖父から父へと続いてきた隅田組、すなわち家業で奮闘する日々がスタートしました。わたしが25歳の時のことです。《後編に続く》
《隅田英治(すみだ えいじ)PROFILE》
株式会社SUMIDA代表取締役。1959年(昭和34年)12月14日、山県郡北広島町今吉田(旧豊平町)生まれ。学校法人広島県新庄学園・広島新庄高等学校卒業後、大阪商業大学商経学部経済学科へ進学。修成建設専門学校中退、伸和産業株式会社(呉市)を経て、25歳で建築・土木工事・設計・施工を手掛ける家業(有限会社隅田組→1997年株式会社隅田組に組織変更→2008年現社名に変更)に就く。従来、主体としてきた公共工事から民間工事へシフトしたほか、太陽光発電工事や建設資材販売(防草シート「はるん田゛®」)など、新機軸を打ち出し、業容拡大を果たす。2022年8月、有志9人で「一般社団法人北広島デジタル田園開発機構」を発足、“里山とデジタルを融合して今吉田地域の活性化を目指す〟を謳って、地域創生・インバウンド活性化・スマート農業の整備などを推進する活動に注力している。座右の銘は「為せば成る、為さねばならぬ何事も」。
【会社概要】
会社名 株式会社SUMIDA
代表者 隅田 英治
所在地 広島県山県郡北広島町今吉田1527 番地
TEL (代表)0826-84-1241 FAX 0826-84-1011
E-mail info@co-sumida.jp
創 業 1927年(昭和2年)
設 立 1974年10月(昭和49年)
資本金 2,000万円
事業内容
建築・土木工事設計施工 太陽光発電工事設計施工
太陽光発電設備メンテナンス事業 電気工事設計施工
建設資材販売(太陽光杭架台、防草シート『はるん田”』等)
従業員数 20人(パート・アルバイト含む)
許可・免許番号
特定建設業 広島県知事許可(特-2)第1955号
電気工事業 広島県知事許可(特-2)第1955号
一般建設業 広島県知事許可(般-2)第1955号
一級建築士事務所 広島県知事登録 20(1)第5104号
在籍有資格者
一級土木施工管理技士 一級電気施工管理技士
一級建築施工管理技士 一級建築士 宅地建物取引士
関連会社
株式会社Zin(2020年4月 ㈱ぐりーんさぽーと広島より社名変更)
CHANGZHOU SUMIDA NEW ENERGY FACILITIES CO .,LTD (中国江蘇省常州市)
〇ホームページ https://www.co-sumida.jp/
〇インスタグラム https://www.instagram.com/sumida.1527/
〇はるん田゛®ホームページ https://harun-da.com/