経営者として、女性として輝きたい。
広大入学やミセスコンテストに挑戦!
和食、フレンチ、スイーツと大阪での修行を終え、26歳で故郷に帰り、念願の自分の店をオープンしたわけですが、広島初お目見えの手のひらサイズのワッフルの反応は驚くべきものでした。嬉しいことに開店初日から商品が30分で売り切れるという予想を上回る大盛況となったのですが、喜んでばかりもいられません。というのも当初のスタッフは、わたしたち夫婦と手伝ってくれる2~3人の親戚や知り合いのみ。自分以外は、お菓子作りの素人ばかりなのでオペレーションがスムーズに機能せず、開店して朝5時までフル稼働しても1日300個くらい作るのが精一杯でした。開店早々、行列ができる店にはなったけれど、地域のみなさんの間で「いつも売り切れで商品が買えない」という評判がたち始めたんですよ。2週間ほど経った頃、とうとう「何回待たせば、気が済むんね!」と怒って来店されたお客さまが現われました。
ワッフル、連日売り切れ
実は、開業間もないわたしたちに最初に面と向かってクレームを伝えてきたこの人こそ、創業メンバーとして櫟を支えてくれた当時42歳の豊島啓子さんでした。人のご縁とはわからないもので、このクレームを機に豊島さんはうちのスタッフとなり、お孫さんとの時間を作りたいとの本人の希望で今年(2024年)5月30日に正式に卒業するまで、30年間、陰になり日向になり、わたしたちをサポートしてくれたんです。商品の製造から若いスタッフの指導まで安心して任せられるベテランとして活躍した豊島さんが櫟の功労者であることは間違いありません。
何はともあれ、連日売り切れが続く、好調な滑り出しとなったわけですが、それには誰もが気軽に楽しめるリーズナブルで豊富な種類のワッフルの新店舗という物珍しさだけではなく、いくつか追い風となる要因があったようです。ひとつは母が娘の店のオープンを地元の友人や知人に、こまめにPRしていてくれたこと。そしてもうひとつは、店舗の立地がJR西広島駅に近く、周辺に大型スーパーや学校が多くて人の往来が絶えない地域だったこと。例えば、己斐地区にある広島音楽高等学校やノートルダム清心高等学校の学生さんたちが学校帰りに立ち寄ったり、参観日には子供から店の話を聞いた父兄の方が来店されたり、知らないうちに口コミで評判が広がっていったんですよ。目が回るほど、忙しい日々が続く中、オープンの翌年(1995年)にわたしは長男を出産しました。のんびり子育てできるはずもなく、しばらくは乳飲み子を背負ってワッフルづくりに励んだものです。
こうして「ワッフルの櫟」として知名度が高まるにつれ、己斐や周辺地区以外からの客足も増えたので1997年には個人事業から有限会社櫟として組織変更しました。併せて創業店舗が機能的に手狭になっていたことから、同じ大家さんが所有するJR西広島駅のロータリーに面した角地の物件が空く情報を耳にして1999年5月、製造・販売スペースもゆったり確保できる、まさに駅前の好立地へ移転することに。「櫟 己斐店」(※現在は西広島己斐駅前店)として看板やロゴマークも刷新した店舗では、スタッフを増員し、製造・販売機能も大幅にパワーアップしました。この店舗のリニューアルに伴い、商品構成の方も充実させようと、クリームやフルーツを使うため、生もので足が早い看板商品のワッフルだけでなく、日持ちのする焼き菓子をラインナップに加えたんです。己斐店移転後、商品開発を含め、いろいろ試行錯誤しはじめたことが、その後の多店舗化に向けてのベース作りにつながった気がします。
多店舗化を推進
路地裏の小さな店からスタートした時には、多店舗化なんて夢のまた夢でしたが、2001年2月、開業7年を経て2店舗目を出店することができました。そごう広島店地下1階の「広島そごう店」です。デパートの地下食料品売り場への出店とあり、製造・販売体制や衛生面など、いろいろ厳しい審査もありましたが、なんとかクリアーして出店にこぎ着けたところ、流石に広島を代表するデパートだけに集客力が違います。「櫟」の商品を広島のみならず、県外にも知らしめる切っ掛けになりました。広島そごう店を皮切りに、その後は、白島店(2002年11月)、広島駅ビルASSE店(2010年10月)、マリーナホップ店(2014年4月)、広島駅新幹線口店(2015年5月)などを出店し、最盛期はグループ8店舗体制まで拡大したこともあります。
多店舗化を加速する中で、櫟の中核拠点となったのが2003年10月に開設した「櫟工房」(※現在は太田川本店)です。この頃、わたしは長男に続き、1998年に次男、2003年に3男を出産して家族が増えており、1人暮らしの母を含めて住居を兼ねた製造・販売拠点を持つことを検討していました。運よく「己斐店」から徒歩6分ほどの太田川沿いに条件を満たす土地があり、自社ビルの建設を決めた次第です。厨房設備を増強して製造効率を高めた工房機能を併設し、可愛いお城を彷彿とさせる外観が特徴の3階建ての黄色い建物は、川土手の道路や背後を走る電車からもひときわ目を引き、櫟の広告塔の役割も果たしてくれましたね。
新名物バームクーヘン
工房の新設に伴い、新商品の開発も加速しました。例えば、みたらしクリームにうなぎのかば焼きを入れた土用の丑の日限定「鰻ワッフル」、パチパチはじけるお菓子をのせた夏限定「花火ワッフル」、ベリーソースを血のりに見立てたハロウィーン限定「ゾンビワッフル」といった期間限定ワッフルもそのひとつ。くすっと笑える遊び心が評判となり、今や季節の風物詩的な人気商品となっています。
そして2005年からは、ワッフルと並ぶ櫟の看板商品「バームクーヘン」の製造を開始しました。実は、日本におけるバームクーヘン発祥の地は広島なんですよ。第一次世界大戦の後、広島の似島に捕虜として収容されていたドイツ人と、似島の人たちは、国同士が戦争で闘いながらも人として交流する中で、お互いの文化を伝えあっていました。ドイツ菓子職人カール・ユーハイムが日本で初めて似島で焼いたとされるバームクーヘンは、1919年、広島物産陳列館(現在の原爆ドーム)で開催されたドイツ作品展示即売会でお披露目になり、これをきっかけ日本全国に普及したんです。この歴史を知って「広島とゆかりの深いバームクーヘンを広島生まれのわたしたちが“平和の証のお菓子”として広めていかなくては」との想いが募り、専用の焼き台を導入して製造に本腰を入れました。
以来、商品第1号「森のおもいでどんぐりバームクーヘン」を筆頭に、中国地方初のハードタイプのバームクーヘン「サンバーム」、広島県産のたまごや米粉を使用したしっとりやわらかな食感のソフトタイプ「月」、すっきりした酸味が特徴の広島レモンをふんだんに使用した「太陽」など、年々シリーズも充実させています。広島に相応しいお土産として普及に尽力してきた結果、バームクーヘン伝来100周年を迎えた2019年には、わたしが「広島バームクーヘン100周年記念推進協議会」会長に任命され、多くの子ども達にバームクーヘン焼き体験やイベント(※ギネス記録挑戦・20m87㎝達成)を実施するなど、有意義な経験をさせていただきました。
ワッフルとバームクーヘンの二枚看板と多店舗化の推進で売上は右肩上がりになったものの、人件費や経費が嵩むので経営は決して楽ではありませんでしたが、わたし自身は仕事に手応えを感じながら、子育てとの両立で忙しくしていたところ…。以前からくすぶっていた夫婦の間の亀裂がどうにも修復できない状況になっており、離婚は避けられず、櫟はわたしが経営を引き継ぐことに。ちょうど広島駅ビルASSE店をオープンしたばかりで慌しくしていた頃のことです。
元気なシングルマザー
3人の息子を抱えてシングルマザーになれば、普通は途方に暮れそうなものですが、わたしの場合は、金銭感覚や価値観の違いなどで何かにつけて意見が衝突していた夫と別れて、身軽になり、気兼ねなく仕事に打ち込めるようになりました。加えて、子育てについては母もサポートしてくれたので、夜中はそれまで勉強出来なかったパソコンに夢中になったり、自分の時間を少し持てるようになったんです。やりたいことができる自由を謳歌しすぎて2時間睡眠が続く日もあったくらいです。もちろん、会社経営についても生来、堅実派である自分が決めた方針を通せるようになったので、貯金など将来にむけての蓄えにも気を配るようになりました。
わたし1人で切り盛りするようになっても気心の知れたスタッフや周りのバックアップを得て、櫟の勢いは止まりません。2013年に開かれた「第26回全国菓子大博覧会・ひろしま菓子博」では、“広島レモン”ブームと相まって、素材に広島レモンをたっぷり使用したもっちり食感のハードタイプバームクーヘン「まることサンバーム」が大ヒット。作っても、作っても足りないといった嬉しい出来事が続きました。このまま幸せな時間が続いてくれると良かったのですが、“好事魔多し”とはよく言ったもの。あろうことか、自分にとって掛け替えのない存在である母が急逝したんですよ。
母の生きざまに学ぶ
特に持病もなく、ずっと元気だった母ですが、2013年の正月明け、病院に検査に行って帰宅した玄関先でそのまま心筋梗塞で逝ってしまいました。昔から「お母さん」と呼ばず、名前(節子)の愛称で「せっちゃん」と呼んでいた母は、お伝えしたように父と離婚後、女手一つでわたしを専門学校に通わせてくれ、櫟の開業後は着付けやペン習字の先生をしながら、わたしを支えてくれたんです。3人の息子たちにとっては、仕事が多忙な母親に代わる育ての親のような存在であり、櫟のスタッフに対しても元気がなければ相談に乗ったり、各店舗をのぞいては度々、二重焼きを差し入れしてくれたり、いつも明るく誰に対しても優しくて愛情深い人でした。母の葬儀には、既に櫟を辞めたスタッフも駆け付け、大勢の人が突然の別れを惜しんでくれました。その光景を見て、わたしもこの世を去る時にはお金を持って死ぬよりも「何人の方に泣いてもらえるかが、その人の生きてきた証(あかし)だ」と痛感したものです。
そういえば、母が亡くなって2~3年経った頃、驚かされることがありました。店舗に設置するレジのメーカーの方が櫟の顧客カードを分析すると、各店舗で一番購入していただいていた上得意のお客さまの売上げがある時からピタッと止まったことが分かったんです。メーカーの人から「このお客さまの苗字は社長と同じ兼田さんですよ」と報告を受け、すぐに母であることが判明しました。社長の身内でありながら社員の家族割引などは一切使わず、グループ店舗を回って自腹で一番買い物をしてくれていたとは…。ありがたすぎて涙が止まりませんでした。
考えてみると、母は自らの行動を通じて、わたしに沢山のことを学ばせてくれました。亡くなる日の朝も然り。忙しすぎて、いつも昼食を抜いてしまうわたしに「昼ご飯はちゃんと座って食べなさいよ」と伝えてきたので「そんなにゆっくりしている暇はないよ」と不機嫌に言い返したところ、「あなたがそんなにバタバタしていたら、スタッフさんたちが何かを相談したくても話しかけにくくて、タイミングを逃してしまいますよ。あなたに必要なのは余裕をもつこと。自分が歩いた一歩一歩を振り返ったら、綺麗な花が咲いているくらい美しく歩みなさい」と母。これが最後の会話となってしまいましたが、その言葉は人生の教訓として、いまも大事にしています。
新しい出会い、そして広大生に
母が突然亡くなり、呆然自失の状態だった2013年1月中旬のある日、少し前に会合でご面識をいただいた輸入車や輸入バイクの販売の大手企業、株式会社バルコムの山坂哲郎社長が弊社を訪問されました。折しも山坂社長が誕生日を迎えられたと聞き、社員一同でサプライズのお祝いをしたところ、わたしが数日前に母の葬儀をすませたばかりであることを知ったご本人がいたく恐縮され、それを機に櫟と深くかかわっていただくようになったんです。カービジネスから総合サービスまで幅広く手掛ける山坂社長には、のちにわたしの中学の同級生で共通の知人である下川信宏税理士と共に我が社の顧問として経営に参画してもらうことになりました。こと会社経営について、まだまだ未熟な自分としては大助かりでした。
とはいえ、わたしも20年近く櫟を引っ張ってきた自負があるので、意見がぶつかることもよくありましたね。例えば、店舗展開を進める中での引き際などもそうでした。話題の大型ショッピングモールへの出店として期待を寄せていた「レクト広島店」や「アウトレット広島店」などを山坂さんから「早く撤退させた方が良い」と指摘され、わたしは「出店してまだ1年ほどなのに、なぜ撤退しなければ?」と食い下がったものの、しぶしぶ応じたところ、その後、まもなくコロナ禍に見舞われたんです。緊急事態宣言などで多くの企業が大打撃を受ける中、櫟は店舗数を縮小していたので売上減少を最小限で食い止められました。常にリスクマネージメントを意識して戦略を立てる経営者としてのキャリアの違いを思い知らされた次第です。
話は前後しますが、山坂社長との出会いにより、わたし個人の新しい挑戦も生まれました。広島大学同窓生の山坂社長が会長を務める広島大学の学部を超えた同窓会「千田塾」に興味を持ち、参加したい旨を申し出ると、入会資格は広島大学卒業生に限られるとのこと。「それなら、わたしも入学するしかない」と広島大学経済学部社会人枠の受験を決めたわけです。周囲からは「絶対に合格は無理!」と言われましたが、その声を聞いて逆にやる気に火が付きました。入学試験の論文は2択課題で、わたしが選んだテーマは「伝統と継承の違いを述べよ」。その昔、母から伝え聞いて自分が好きな言葉としていたアインシュタインの「昨日から学び、今日を生き、明日へ希望を抱く」という名言をひもとき、受け継いだことを次に伝える重要性や、母の葬儀でお寺さんから教えていただいた仏教の話などを記述してみたら、驚くことに合格できたんです。大事な場面で、またしても母に助けられました。
晴れて、憧れの広大生になることは出来たけれど、会社を経営しながら仕事を終えて毎日大学に通うのはなかなか大変でした。おまけに学生時代から勉強には全く無縁だった⁈こともあり、数学の微分積分の授業なんて、最初は記号の意味すら、ちんぷんかんぷんです。そんなわたしを授業外でも熱心に指導して下さった阿賀岡芳夫名誉教授はじめ、多くの先生やクラスメートのサポートのおかげで6年という長い期間はかかったものの、2021年3月、どうにか無事に卒業することができました。広大生となって得られた知見や人との出会い、何よりも諦めずに学びを続けられたことは、現在の自分を支える糧になっています。
輝く女性として羽ばたく
広大を卒業した春頃、仕事の関係で入会していた広島西倫理法人会の活動を通じて美容・健康・社会貢献事業などを手掛けるフローレグループ代表取締役の大江かおりさんとご縁をいただきました。大江さんは自分にリミットを作らず、チャレンジし続ける輝く女性のコンテスト「ミセスオブザイヤー」の広島統括プロデューサーも務めておられ、ちょうど第2回大会の出場者を探しているのだけれど、苦戦していたようで、わたしに声をかけられたんです。熱心なお誘いに、やむを得ず応じることになり、半分冷やかし気分で1回目のオリエンテーリングやウォーキングのレッスンに参加してみると…。単に見た目の美しさを競うのではなく、生き方がかっこいい女性のストーリーや思いを重視するコンテストとあって、出場するみなさん全員が厳しいレッスンに真剣に取り組む姿を見て、「生半可な気持ちで参加するわけにはいかない」と気を引き締めました。それからは、仕事を終えると、生まれて初めて履いた14cmのハイヒールでのウォーキングやスピーチのレッスンに明け暮れる日々の始まりです。
何ごとも夢中になるとのめり込んでしまう性格もあって、連日深夜まで猛レッスンを続けたおかげで、「2021年ミセスオブザイヤー広島大会」グランプリ受賞、続いて開かれた「ミセスオブザイヤー日本大会」で準グランプリ受賞、「2022年ミセスオブザイヤー世界大会」でベストコスチューム賞&準グランプリ受賞と、予想もしなかった結果を残すことができました。世界大会では英語のスピーチと母の故郷、山県郡筒賀村の伝統芸能でもある神楽の衣装で披露したパフォーマンスが高評価につながったとか。広島の文化を世界に発信する役目も果たせて喜びもひとしおです。
ミセスオブザイヤーへの出場を通じて、また新たな出会いがありました。ウォーキングスペシャリストの太陽MEGURUさんです。2021年11月「Virgelia世界大会Mrs.Asia USA(米国カリフォルニア州)」において、「Mrs.Asia Glamour」初代タイトルに輝かれた彼女の姿に憧れ、わたしも挑戦してみたいと思うようになったんです。MEGURUさんとの交流を機に、2023年11月、ロサンゼルスで行われる歴史あるこのコンテスト(※35周年記念)に日本代表として出場することが叶い、ミセスオブザイヤーに続いて日本にしかない衣装で、母の故郷に古くから伝わる〝神楽KAGURA〟を披露したところ、「Mrs. Asia USA Universe」と「Best international costume」の2つのタイトルを受賞することができました。出場にあたり、サポートしてくれたMEGURUさんをはじめ、大会関係者の方々、広島から応援してくれた神楽の仲間、家族、社員、取引先、友人…みなさんのおかげで、世界の舞台で素晴らしい経験をさせていただくことができ、感謝に堪えません。
櫟、ウズベキスタンへ進出
さて、わたしの個人的な挑戦が続く一方、櫟も海外展開という大きな挑戦に踏み出しました。切っ掛けは広島大学の千田塾でウズベキスタン共和国から留学して来た広島大学大学院卒業生ボブさんとの出会いです。彼とのご縁でウズベキスタンを訪問する機会をいただき、現地の人々の優しさや街の美しさに感動して進出を決意しました。人口も増加傾向にあるウズベキスタンで「子供たちに日本のお菓子や文化を届けたい。女性たちが活躍できる社会づくりに貢献したい」を当面の目標に、設備も材料も十分に揃わない中で、現地の素材を活かした手作りワッフルの開発に着手し、2023年9月、ウズベキスタンの首都タシケントにカフェ「Donguri (どんぐり)」をオープン。現在は、ワッフルを中心としたスイーツやラーメンなどの日本食を提供しています。
ウズベキスタンでは、この店舗をベースに今後は、ミセスオブザイヤーやバージリアコンテストで得た経験とつながりを生かし、現地で採掘できる金を加工したジュエリーのデザイン、洋服のデザイン、美容と健康などに関連する事業を計画しています。1人の女性として、ビジネスやコンテストの現場を知る者として、「輝く女性を応援する活動」を現地の女性のために広めていきたいですね。今年(2024年)5月には、その第1弾となる日本とウズベキスタンとの「国際文化交流ファッションショー」をウズベキスタンの歴史的建造物〝ナボイ劇場〟で開催してきたところです。
3人の息子たち、次の世代へ
近年は、コンテストへの参加やウズベキスタンなどで海外へ出張する機会が続き、わたしが会社を空けることも増えましたが、ご心配なく。社長の留守は息子や長年勤めてくださる頼れるスタッフがしっかり守ってくれています。
ちなみに3人の息子たちはいま――実質的な櫟の後継者として頑張っている長男・柾人は、わたしがコンテストへの出場が忙しくなるタイミングで可愛いお嫁さんを迎えてくれました。しかも彼女は非常に優秀なパティシエール(女性の洋菓子職人)なんですよ。心強いこと、この上ありません。次男・星七は、ウズベキスタンに渡って「Donguri (どんぐり)」の運営はじめ、現地の活動基盤作りを進めています。三男・翔太は、櫟がイベント出展や移動店舗として稼働させるキッチン・カー部門を担当。次男より先にお嫁さんをもらい、わたしに初孫を抱かせてくれました。3人それぞれが、自分の役割を責任もって果たしてくれているので頼もしい限りです。忙しい時は、ワッフルを入れるケースの上でお昼寝させていたような息子たちが立派に育ち、彼らのじいちゃん、ばあちゃんも、すでに他界してしまいましたが、きっと孫たちの奮闘ぶりを空の上から見守っていてくれることでしょう。
自分の足跡を振り返ってみると、目の前に現れるミッションをやる前から「わたしには無理だ、と決めてしまわず、とりあえず一度はチャレンジしてみる」を繰り返してきたような気がします。限界を決めるのも、チャンスを見落とすのも、全部自分の責任です。いろんなモノに興味を持って、夢を諦めずに過ごしていたら、人の一生なんてアッという間ではないでしょうか。波乱万丈⁉なわたしの人生ですから、まだまだ、これから何が起こるか?何を起こすか?わかりませんが、いつかは今回の履歴書を分厚い本に出来るくらいドラマティックなエピソードを積み重ねていきたい。まずは、今日までわたしを支えてくれた全てのみなさんに感謝します!
《兼田貴代(かねだ きよ)PROFILE》
株式会社櫟(くぬぎ)代表取締役・オーナーパティシエール。1967年(昭和42年)5月23日、広島市生まれ。広島県立安芸高等学校卒業後、辻調理師専門学校で調理を学び、大阪の和食・洋食・デザート店などで修業。1994年2月、広島でワッフル専門店「櫟Kunugi」を創業(※1997年6月有限会社櫟に、2014年7月、株式会社櫟に組織変更)。寿司屋のシャリとネタのバリエーションをヒントに独自開発した手のひらサイズのワッフル、広島が発祥の地であるバームクーヘンなどを看板商品に広島市市内で4店舗(※2024年7月現在)展開中。2023年9月、ウズベキスタンのタシケント市内中心部にカフェ「Donguri (どんぐり)」をオープンするなど海外進出にも意欲。
シングルマザーとして3人の息子を育てながら、2015年には広島大学経済学部に社会人入学し2021年卒業。「ミセスオブザイヤー2021広島 ファイナリスト」グランプリ、「2022年ミセスオブザイヤー世界大会」準グランプリ&ベストコスチューム賞受賞。
「2023 年バージリア世界大会ミセス アジア USA」ユニバース賞&ベストインターナショナルコスチューム賞受賞。趣味は、オートバイ(ハーレーダビッドソン)ツーリングほかアウトドア活動、DIY他多数。座右の銘は「昨日から学び、今日を生き、明日へ希望を抱く」
【会社概要】
会社名 株式会社 櫟
所在地 広島県広島市西区己斐東1丁目2-21
TEL 082–272–0001 FAX 082–272–0300
事業内容 洋菓子(ワッフル・バームクーヘン・焼菓子等)の製造及び販売
店 舗
■太田川本店
広島市西区己斐東1丁目2-21 TEL 082–272–0001
■西広島己斐駅前店
広島市西区己斐本町1丁目12-7 TEL 082–271–0434
■そごう広島店
広島市中区基町6-27広島そごうB1F TEL 082–512–7814
■JR広島駅ekie店
広島市南区松原町1-2 2Fおみやげ館 TEL 082-568-1001
■広島空港店
三原市本郷町善入寺64-31 広島空港2F TEL 050-3561-0777
■ウズベキスタン「Donguri (どんぐり)」
г. Ташкент, ул. С.Азимова, дом 44 TEL +998 95 954 20 77
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