【中国武術への道 】
Vol.18 内三合 番外編 It hits all by itself.(無拳無意)

【中国武術への道 】


中国武術の各門派を修行し、陳氏太極拳を専門として嫡伝の伝承者となった桂峰生氏があなたの知らない中国武術の世界をレクチャーいたします。

前々回から紹介している『燃えよドラゴン』「Don’t Think. Feel!」のシーンとは別の場面を紹介してみたい。この映画の中にはBruce Lee(以下・李小龍)の武術に対する哲学がいろいろな場面の中に織り込まれており、今後も紹介する機会をもちたい。今回のシーンは、Vol.13 内三合(その四)で紹介した「無拳無意」に通じている。

ロイ・チャオ(喬宏、Roy Chiao・1927~1999)が演じる少林寺の老僧(老師)と、武術修行についての問答のシーンがある。実はこの老僧との場面は香港公開版のみに使用され、国際公開版からはカットされていた。公開当時は、この会話のシーンが理解されにくいと判断されたのだろうか。1998年発売のワーナー版ソフト「ディレクターズ・カット版」でこの場面が挿入された。因みにこのシーンは、会話の内容を改変した別テイクが後の『死亡の塔』に流用されている。

戦いの中で何を思うか老僧に聞かれた李小龍はこう答える。

Lee: Teacher?

Shaolin Abbott: I see your talents have gone beyond the mere physical level. Your skills are now at the point of spiritual insight. I have several questions. What is the highest technique you hope to achieve ?

Lee: To have no technique.

Shaolin Abbott: Very good. What are your thoughts when facing an opponent ?

Lee: There is no opponent.

Shaolin Abbott: And why is that ?

Lee: Because the word “I” does not exist.

リー:老師・・・。(※1)

老僧:私が見る限り、お前の技量はすでに肉体的な領域を超えたところにある。その技術も精神的なところまで達している。そこでいくつか問うてみたい。お前が望む最上の技量とは何だ?

リー:何の技も持たぬ事です。

老僧:よろしい。敵に直面したときにお前は何を考える?

リー:敵などいません。

老僧:なぜ、そう思う?

リー:“私”というものは存在しないからです。

Shaolin Abbott: So,continue.

Lee: A good fight should be like a small play,but played seriously.

A good martial artist does not become tense,but ready.

Not thinking, yet not dreaming. Ready for whatever may come.

What the opponent expand, I contract. When he contract, I expand. When there is an opportunity. I do not hit. It hits all by itself.

老僧:そうか、続けなさい。

リー:優れた戦いとは小さな遊戯のようであるべきです。しかし真剣な遊戯です。

優れた武術家は張り詰めてはいません。それでいて抜かりはありません。思考するのではなく、それでいて夢見ているのでもない。全ての事象に備えています。敵が技を展開して来るならば、私は引き、敵が引くのであれば、私は技を仕掛けます。そして機が熟したとき、“私”は打ち込みません。(拳をつきだし)“機”が自から打ち込むのです。

Shaolin Abbott: Now, you must remember: the enemy has only images and illusions behind which he hides his true motives. Destroy the image and you will break the enemy.

老僧:よし。ならば憶えておくがよい。敵は背後に真意を隠したまま虚像として表れる。虚像に惑わされるな、さすれば敵に打ち勝つことができる。

いかがであろうか。Vol.13 内三合(その四)で紹介した「無拳無意」の境地を別の角度から実に生き生きと表現している。「無拳」であるがゆえに特定の技にこだわることがない。「無意」であるがゆえに“敵”は存在せず、そこに“私”も存在しない。この境地を現代風にいうならば「ボールが止まって見えた」というような「ゾーンに入る」という表現がわかりやすいかもしれない。理想的な集中力が極限にまで高まった結果、「失敗に対する不安や恐怖から解放され」「心と体が調和しており、自然である」が故に緊張せず、抜かりがない。「完全に没頭している特殊な意識状態」なので考える事とも夢見る事とも異なっている。全ての事象に備えているとは、目の前の「今に生きる」ことに集中し、「感覚が研ぎ澄まされ」自在な対応が可能となった状態だ。

「優れた戦いとは小さな遊戯のようであるべきです。しかし真剣な遊戯です」このフレーズには注目すべきポイントが二つある。まず先に「真剣な遊戯」について。戦いと遊戯とは、相反しているようにも思えるが、前々回(Vol.16 内三合 番外編 Don’t think. FEEL!)の「実戦は練習のように」を別の角度から表現したものと考えている。「練習は実戦を想定」し、常に相手との相対性の中に技術は存在していることを意識する。さらに局面を抽出したり、遊びのように戯れてみたりと、さまざまな角度からアプローチすることが上達には必要だ。

次に李小龍が、「優れた戦い」と言っているように高次元の中での会話であることを忘れてはならない。試合でも日頃の成果を発揮することは難しいが、突発的に発生するトラブルにおいてはなおさらだ。常に取り返しのつかない怪我や生命の危険、法律上の制約がある中で「優れた戦い」を行うことはさまざまな困難を伴う。皆さんも別世界の事と思わずに自らの生活の中で立ち向かうべき本番や試合などに置き換えて想像していただきたい。

武術家は、日頃から長期間の綿密な鍛錬を行い、不安や恐怖を克服しようとしている。しかし、武術を志すとは修羅の道に入る事ではない。普段は自然体で日常の生活を送りつつ、いざという時には、自動的に反応してこそVol.13 内三合(その四)「無拳無意」「無為自然」を体現したといえるだろう。何も準備のない自然体とは全く異なる境地である。「Don’t think. FEEL!・考えるな、感じろ!」も感性だけであってはならない。明確な目的意識とテーマを持って練り上げられた結果、もたらされた感性であることが大切だ。

“私”という存在を超えて“機”が自から打ち込む、「気がついたら相手が倒れていた」李小龍は、この「無拳無意」の境地について「以無法為有法 以無限為有限(無法を以って有法と為し、無限を以って有限と為す)」のことばで表現し、自身の創出したジークンドーのシンボルマークの中に入れている。そして、老僧のことばも「無拳無意」の境地を述べている。「敵は背後に真意を隠したまま虚像として表れる」ここでいう虚像とは、“私”自身が作り出したものとも言える。

老僧との会話のくだりは、クライマックスシーンの伏線になっている。鏡の部屋での攻防の際、鏡に映った宿敵ハンの虚像に李小龍は、翻弄されてしまい、攻めあぐねてしまう。その時、「虚像に惑わされるな、さすれば敵に打ち勝つことができる」という教えを思い出し、ハンを倒すきっかけとなる場面がある。武術的な解釈をしてみよう。映画では、象徴的に鏡の部屋として設定されている。虚像とは、“私”自身が作り出したものだ。いかに上達したとしてもわずかな油断があれば、ありのままを正確に見ることができない。錯覚によって自らが作り出した敵の幻想に翻弄され自滅してしまう。事象をありのままに正しく認識してこそ「無拳無意」の境地を体現できる。私達も日常の生活の中で自ら作り出した虚像や幻想に惑わされてはいないだろうか?

前回、甩手について補足したので今回は、站椿について補足してみたい。站椿には、さまざまな形式があり、段階に応じて、いろいろな形に変化するが、最も基本となるのが立正式站樁である。私も練習の中で日によっていくつかを選択するが、必ず立正式站樁から始めている。習熟するに従って腕や手の形を変化させたり、架式(立ち方)の高さを変え、より低い姿勢となったりする。さらには、架式を馬式(馬歩)からさまざまに変化させる場合もある。

例えば形意拳では、Vol.13 内三合(その四)の写真のような三体式站樁という具合だ。「無拳無意」は、呼吸の習熟が欠かせないと私は考えている。站椿も呼吸の鍛錬に大変有効であり、初歩の段階では、姿勢の要領を確認する場でもある。姿勢の要領には、立身中正や虚領頂勁、尾閭中正など多くの口訣がある。内三合をテーマにした心・意・気の内面は、外面の形が整うことによって初めて安定する。次回から外三合についてお話ししてみたい。

【注釈】

※1 会話の冒頭、李小龍が「老師(Teacher)…」と呼び掛けている。老師とは、中国語で「老师(老師・lǎoshī)ラオシー」で師と仰ぐ人、師匠・先生の意味。「老」とは熟練したという意味で年齢は関係なく、たとえ自分よりも若い先生にも老師と尊敬の念をこめて呼称する。技術や芸を伝授する師匠や親方などは「师傅(師傅・shīfù) シー フー」と区別することもある。中国語の「先生(xiānshēng)」は「~さん」のように男性の敬称として使わている。

※2 前回と今回の私の演武写真は、福州永春拳の套路で斬紋套(ざんもんとう)。永春拳は、開祖が女性とされるように力強いイメージの南派拳術の中で緻密でしなやかな手技を特徴としている。

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