【中国武術への道 】
Vol.13 内三合 内なるエネルギーの秘密(その四)

【中国武術への道 】


中国武術の各門派を修行し、陳氏太極拳を専門として嫡伝の伝承者となった桂峰生氏があなたの知らない中国武術の世界をレクチャーいたします。

今回は、内三合の「心意」特に「意」について形意拳(※1)の考え方を中心にお話をしよう。形意拳という門派では、究極の状態を次のように表現している。「拳無拳、意無意、無意之中是真意」略して「無拳無意」といい、本来「形」があって無いようなものである。無であるが故にあらゆる事象、すなわち有に対処し、打ち破ることができる。これを無意の中にこそ真意がある、という。

無意とは無為(※2)にも通じる自然の状態。私たちの体は、特に意識しなくても熱い鍋やアイロンに直接手が触れると反射的に手を引っ込めてしまう「脊髄反射」を備えている。さらに「火事場の馬鹿力」。家が火事になった時に、普段は非力と思われている人が家にあった重たい家具を抱えたまま脱出したという逸話から転じて、「とんでもなく追いつめられると本来無いほどのパワーを発揮する」という意味である。

皆さんは、こうしたパワーや反射を自在に利用できれば、より強くなれるとは思わないだろうか。人間本来もっている能力を有効活用することは、武術においても当然考えられている。

真の勝負師は勝負にとらわれないこと、勝負の場に臨んで勝敗に心乱されぬ無意無心の境地に立ちうる者こそ無敵の強者であり、勝負の世界においては無意無心こそ最大の武器であることを明らかにしている。しかし、今一度よく考えてみていただきたい。「無拳無意」になったつもりで身体は自動的に反応してくれるだろうか?

それは、妄想でありファンタジーだ。「無拳無意」の境地は、形意拳の究極の状態であって、ひとつひとつ段階を積み重ねることによって初めて到達することができる。

この境地への扉を開くには二つのポイントを基本としている。第一に「心」や「意」を自在に制御できるということ。心は、自分の思うようにならない、実に厄介な存在だ。心が居着くという事は、執着することであり、心(こころ)の語源ともされる「凝る(こごる)」状態をいう。また一方で「こころころころ」と取り留め(とりとめ)もなく変化をしていく。

また、「心ここにあらず」というように目の前に探しものがありながら意識していないとその存在に気付くこともない。自分にとって無いのと同じだ。人間は、刺激によって反応するのではなく、五感による知覚によって反応するのである。そのため、内部意識の覚醒が必要であることを前回の甩手でもお話しした通りだ。よって「意」の開発には外部に対しては五感という感覚器官を知覚によって鋭敏にし、内面に対しては内部意識・内感覚を磨くという両面が必要となる。

さらに、表面意識を整理し 思考を方向付けし 理想的な精神集中によってこれをコントロールする。これを徹底的に繰り返すことによって次第に浸透していく。そして、熟達するに従って理想的な反射を得ることができる。このように心と意を自在に操るためには、明るく研ぎ澄まされた有意識下において繰り返した事を無意識下に浸透させることが大切だ。

第二に理想的な精神集中を考える上で形は非常に重要だ。体の形が一定の方式にあてはまってこそ心と意が安定する。意を重視すると同時に形の重要性を追求したのが形意拳だ。これら二つのポイント、①心意の制御、②身体の形のあり方を結びつけるのが「意念」(※3)である。私たち誰もが持っている「意」は、それだけでは「力」とはならない。「意」に方向性を与え、外面の身体と結びつける鍛錬を私の一門では「意念のコントロール」と呼んでいる。一般にはメンタルトレーニングと言う方がわかりやすいだろう。

そして長年にわたって鍛えることにより練りあげられた「意」の作用が「意功」となる。鍛錬された意念により、心意が体を導き、気を動かし、力という形すなわち技となるのだ。どのような突発的なことが生じようとも我が心意は、平然として左右されることがない。これが本当の無為自然・平常心である。こうして無意識によって生み出される技は、もはや頭であれこれ考えたものではなく、敵の動向を体が瞬間的に感知しそれに最も適した技が自然に繰り出される。

敵は絶対にこれを避けることはできない。そして「気がついたら敵が倒れていた」という結果となる。これこそが形意拳の真面目なのである。このことを理解せず中途半端な状態であれば、敵と相対しても心が乱れれば体が動かず、そうなれば日頃練っているはずの技も使えず、当然に威力も発揮できない。そして結果的に敵に敗れ去ってしまうという事態を招いてしまうのである。

改めて「無拳無意」そして「無為自然」の境地に達するにはどうすればよいのだろうか?実戦の闘いの場において絶対の必要条件の一つとして、人間の抱く最も強い感情である「怒り」や「悲しみ」を押し殺す必要がある。それによって無意識を有意識下に引き出すことが可能になっていく。これが意念と称されるものなのである。これを「無意識から有意識への変革」であるといい、私はこの状態を「静かなる覇気」と表現している。相手を威嚇し、恐怖に陥れることとも、絶対に打ち倒すという気迫で圧倒する(※4)こととも全く異なっている。

怒りを押し殺した究極の意念こそが形意拳の目指す「無拳無意」への道標なのだ。武術における無為自然の境地を示す故事を諸子百家より紹介しよう。中国の古典「荘子」外篇にある木鶏(もっけい)の話である。

昔、周の宣王のために闘鶏を養う紀省子という名人がいた。ある日、王が名人に尋ねた。「どうだ、もう闘えるかな」。紀省子は「いや、まだでございます。今はまだ、むやみに強がって威勢を張っています」。十日して王が尋ねると、「まだです、ほかの鶏の鳴き声を聞いたり、姿を見ると、たちまち身構えます」。十日して王が尋ねると、「まだです、ほかの鶏の姿を見ると、にらみ付け、気負いたちます」。

十日して王が再度、尋ねると、すると紀省子は「もう完璧です。ほかの鶏が鳴いても、もはや反応もしません。まるで木で作った鶏としか見えません。徳が充実しました。ほかの鶏で相手になろうとするものなく、背を向けて逃げ出してしまうでしょう」。転じて、木鶏とは無為自然、何事にも動ぜず、常に平常心でいられることをいう。(福永光司著・荘子より)

無為自然や平常心も人により様々な解釈や受け取り方がある。武術的な角度で見ると体験に基づく別の解釈ができることをおわかりいただけるだろうか?技術・体力トレーニングを毎日行うように「意念のコントロール」も長期間続けることにより、はじめて身につけることができる。「心」や「意」も同様で鍛えあげることにより、はじめてその力を発揮する。つまり人間は、集中する習慣を身につけることにより、心の集中力という筋肉を発達させることができるのである。これは決して本を読んだ知識だけであったり、数回試してみただけでは身につくことはない。

【注釈】

※1 形意拳~河北省深県出身の李洛能(1808~1890年)が、38歳より約10年間、山西省祁県の戴隆邦に載氏心意六合拳を学び、形意拳を創出した。一説では、従来の老三拳(三種類の打拳)を五行思想に符合させ、五行拳に発展させたとされる。また、写真の三体式は、形意拳の開門式(起式)の定式で構えではない。これを李洛能が編み出したという説もある。上から尚雲祥派と張占魁派それぞれの五行拳の第一路・劈拳。一番下の三枚目は張占魁派の開門式の三体式、劈拳の姿勢からさらに体を開き、腰を落としている。尚雲祥派の三体式は、一番上の写真で劈拳と同じ。

※2 無為とは、無為無策・無作為というように何もしないでいる、漫然として過ごしている状態と混同しがちであるが、老子で次のように説いている。

老子 第三十七章 道常無為而無不為 「道は常に無為にして、而も為さざるは無し」

道というものは、何かを為そうと意図的に作為技巧を弄する訳でもないにも関わらず、万物の生成消滅の営みを始めとして、常に何もかも自然に為されている。

※3 意念とは、感情を伴わない「静かなる覇気」の他にも精神集中やイメージ操作などさまざまな内容を含んでいる。

※4 絶対に打ち倒すという気迫を武術では「激しい念慮」という。

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