【中国武術への道 】
Vol.3 簡化太極拳雑話(前編)

【中国武術への道 】


中国武術の各門派を修行し、陳氏太極拳を専門として嫡伝の伝承者となった桂峰生氏があなたの知らない中国武術の世界をレクチャーいたします。

現在、世界中でもっとも愛好されているのは、簡化二十四式太極拳だ。簡化二十四式をお話しする前に簡単に太極拳の歴史を俯瞰してみよう。これから述べる歴史や背景は、実践者として太極拳を続け、公開されている書籍に著わされたことをそのまま鵜呑みにせず、歴史的真実に近づきたいと探求し、分析してきた結果である。太極拳の発祥の地は河南省黄河の中流域といわれている。この一帯は中原(ちゅうげん)といい、黄河が運んだ肥沃な土の恩恵を受けた国内屈指の穀倉地帯だ。

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中原は、中華文明の発生の地であり、古代周王朝の頃から重要視されている。見渡す限りの畑であって土地の生産性が高いゆえに、覇権を競う兵家(軍事に携わる者)が常に争う場所だった。後漢末の乱世に中原を制し、皇帝を擁して天下に号令した三国志の曹操のように、この地を制した者が中国全土を支配することが多かった。このことから「中原に鹿を逐(お)う」の言葉が生まれた。「鹿」は帝位のたとえ、一頭の鹿を大勢の猟師が追って争う様子を表し、ある地位や目的を射るために競う意味で使われる。また、中国の大衆小説である武侠小説(※1)の世界においても武林(※2)の覇権を争う場という意味で用いられることがある。

14世紀、中原の一角、河南省温県へ「陳」姓を持つ一族が移り住み、後に陳家溝(ちんかこう)と呼ばれるようになった。彼らは、武林の覇者となるべく進出してきたわけではない。かつてこの地の住人は旧王朝の元王朝に与していたため、明王朝初代皇帝・洪武帝(朱元璋)の怒りを買って村ごと皆殺しにされたとされる。陳一族は、人口の空白地帯となったこの土地に洪武帝の移民屯田政策により、山西省洪洞県大槐樹村から移住してきたのである。

17世紀、明王朝崩壊のきっかけとなったと考えられる農民を中心とした反乱軍の蜂起が各地で起こった。河南省登封においても叛乱は発生したが、陳一族により鎮圧されたといわれている。その後、清へ王朝が交代すると、陳一族は各地の警備を任ぜられるようになったようだ。これは、匪賊撃退の武功(実績)があり、また一族の武術も体系化され実力者が多く輩出されたことによる。

18世紀には、陳一族の武術の優秀さは各地の武術家の噂となったほどだ。陳一族は、時代の潮流に翻弄されながらもその変化に柔軟に対応し、運命に屈することなく力強く命をつないできたとはいえないだろうか。彼らは、先祖伝来の武術を一族以外には決して伝授しないことにより優位性を保とうとした。塀の中で秘密裏に指導が行われ、外部の者に練習風景でさえ一切見せないという徹底ぶりだった。

19世紀初め、河北省広平府永年県の一人の若者、楊福魁(よう・ふくかい)、後の楊露禅(よう・ろぜん)が、その並外れた熱意と才能により陳一族の門外不出の武術に正式な入門を許され、修行を積んだ。その後、故郷に帰ると多くの武芸者の挑戦をことごとく退け、負けることはなかったため「楊無敵」(ようむてき)と称賛された。また、用いる技が非常に柔らかな動きであることから「綿拳」(めんけん)あるいは「化拳」(かけん)と称された。そして、清王朝の王府が置かれていた北京へ招聘されると、楊露禅の評判をききつけて入門を希望した皇族や高級官僚にも武術を教えるようになった。

太極拳と名付けられたのはこの頃と思われる。日本で言えば明治維新の頃で百数十年ほど前のことだ。太極というネーミングは、当時の北京の人にとって大宇宙の根本原理・不老不死という深遠かつ神秘的なイメージで受け入れられたに違いない。次回、簡化太極拳雑話(中編)に続く。

※1 武侠小説:義理を重んじる武芸者たちが、江湖(武芸者たちの世界)を舞台に秘伝の武芸や秘宝を巡り、争いを繰り広げる勧善懲悪の大衆小説のこと。

※2 武林とは、武術を身につけた者たちが所属する社会のこと。武術界などと訳されることもある。

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